hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人が亡くなる事について…。

回答数回答 2
有り難し有り難し 36

介護の職場について早13年…。

こういう仕事ですので、
終末期や急変等で亡くなる方を
看取る事があります。

自分は、他の職員からすると、
看取ってきた回数は多いほうだと感じています。

今月に入って、夜勤中に
急変の方がお一人、終末期の方をお二人看取ってきました。まれにみる多さだと感じています。

自分としては、人が亡くなる事は悲しい事ですが、最期の時、家族でもない自分を選んで頂いたと感謝しています。

先日、亡くなった方を見送り、職員が出勤して来た際に「また◯◯君の夜勤の時?」と数人から言われ、とてもショックを受けてしまいました。

あたかも、自分が夜勤の時に、不幸な事が起きていると言われてるようで…。
人が亡くなる事って、そんなに悪い事でしょうか?

よろしければ、お聞かせ下さい。
宜しくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人は死にます

早かれ遅かれ死にます、例外は一切ありません
万物とは常に流転しているんです、人も動物も命あるものは命ある限り生き、そして亡くなります
建造物やら自然界のものもすべて常に移り変わっています、ただ一つとして永久に存在するものなんて無ければ一切の些細な変化も起こさない変わらないままのものはありません

どれだけ頑丈なシェルターであっても1分1秒劣化していきます、それがこの世の不変の真理です

佛教ではこのことを「諸行無常」といいます

ようしーさんは職業柄人の死に立ち会う場面は多いことかと思います、そして臨終のときが自分であった、自分を選んでいただいたことを嬉しく思う、非常に素晴らしいことだと思います。
ようしーさんは職場で誰よりもその場面を経験している。
だからこそ、あなただからこそ他の方とは違ってその意味をよく理解してらっしゃることかと思います。

他の方なら慌ててしまうときでもきっとある程度は落ち着いて行動して職務を全うされることと思います、誇ってください、自分だからここまで亡くなった利用者さんに対して真摯に向き合えるのだと

ショックを受けなくていい、悪いことのわけがない、大丈夫です。

私もたまにサービス付き高齢者向け住宅へふらっとお茶を飲みながらお話しするために伺うことがあります
巷では高齢者虐待などのニュースをよく目にするが・・・・やはり非常に皆さん真摯に介護してらっしゃいます、本当になんと素晴らしいか

それを友人に話すとたまに言われます、「死神やんけ」
答えます、「ちゃう、坊主や」
周りが何と言おうとようしーさんは立派な方だと思いますし気にする必要はありません、その自分を選んでくれてありがとうの気持ちを絶対に忘れないでいてくださいね

{{count}}
有り難し
おきもち

THIS IS IT 死は死。 だからこそ。  

人が亡くなることは本当に本当のところは良いも悪いもありません。
亡くなってくれたほうが良かったと思われる場合だって、例外としてはあるのです。
人の死に善悪を想うのは、生きている人のみです。
だからこそ、その死に対する尊厳、敬意をきちんと持つべきであるのが人間の人間としての人間性、宗教心。
ある方は植物人間に近い状態で沢山のチューブにつながれて延命措置、家族たちは医療費も大変な金額、労力も大変な状態でした。
その方が亡くなった時、その家族は「良かった」とさえ思ったそうです。
人の生や死というものが道徳的な「良い悪い」という事が、介入できないケースもあることのたとえです。
仮に、一人っ子政策緩和で、人間だけがこの世に増え続けました。
人々は食べ物を奪い合い殺し合いをするようになりました。
生きててよかった。
戦争に行くことになった。良かったのか悪かったのか。
一つの食べ物を巡って相手が死んでくれてよかった。良かったのか悪かったのか。相手にも家族はあろうに。
このような良かったは果たして「良い」と言えましょうか?
人間の小さな頭で物事を考えると「良いや悪い」が生まれる。
生にしても良い悪いはない。
死にしても良い悪いという人間のラベルや値札がそこには無い姿があるのです。
そこを見極めてください。
価値や評価が生まれる前の「それ」としてあるのが物事の一側面でもあります。
だからこそ、だからこそ、生を軽んじて引けない、死を軽んじてはいけないのです。
亡くなったその方に哀悼の意を捧げると共に、あなたが人の死に立ち会う中で感じる憂いなきよう、今後仏道を歩まれて、ものの根本、本質を探究されることをお勧めいたします。
「THIS IS IT」全てはただ、それがそうあるだけ。
その通りにあるだけ。
それでいながら偉大なる死のさま GREATFUL DEADです。
あなたはその偉大なる死に立ち会われたGREATFULな 生 を歩んでおられるのです。
他人の言葉に屈することなく自らの生を完全燃焼してください。あなたの尊厳を軽んじる発言は人間性を欠いた発言だからです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

誠にありがとうございます。
お言葉を頂き、だいぶ楽になった気がします。
今までの亡くなられた際、「今までお疲れ様でした。ゆっくり休んで下さいね」と御利用者様へ声をかけた事は間違いではなかったのかなと思います。
人間は生をうけながら、死に向かって歩んでいるといいますが、その臨終の際、自分を選んで頂いた事に誇りを持って、歩んで行きたいとおもいます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ