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元彼のことが忘れられません

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最近、約半年付き合ってた彼と別れました。
結婚も考えていて、ご家族やお互いの友達にも会っていました。

付き合ってる間に元彼は鬱病が進行し入院もしましたが、それでも変わらず大好きでした。
そんな元彼に1ヶ月ほど前に急にお別れを告げられたのです。

鬱で寂しかったのか、浮気をされました。
元彼はその浮気により私との関係を見つめ直し別れを決意したようです。

私といると安心すること。
今までにないくらい幸せだったこと。
でも今の自分じゃ私を幸せにできないから、頑張って働かないといけないこと。
そのためには恋愛をしてる場合ではないと。
そう伝えられました。

私は結婚適齢期、元彼はまだ20代前半です。
適齢期の私を何年も待たせるわけにはいかないので、自分のことは忘れてくれと言われました。

元彼と何度か話し、これは本心なのだと感じました。

もうすぐ元彼は、働くために遠く離れた場所に行ってしまいます。

その彼は初めて本気で愛せた人です。
だから私は何よりも彼の幸せを願ってます。
そのためには今私は彼を笑顔で送り出すしかないと、頭ではわかっています。

でも…
どうしても元彼のことが忘れられないのです。
何とか復縁できないかと考えてしまう自分に疲れてしまいました。
元彼のお母様とも縁を切れない状態です。

私はこのまま思い続けても良いのでしょうか。
もしくはどうすれば未練を絶って前を向けるのでしょうか。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の夢・幻想が好きになっているのでは?

こんにちは。ゆうさん。
ヒソヒソ私の名前は「身代わり ゆう」です。
今から丹下がアドバイスしますが、コイツは辛口で容赦ないので、ダメージを最小限に食い止めるために、私が身代わりで先に受け止めてきます。
ゆう「(T_T)…というわけなんです。」
丹下「それはそれはお悲しいことでした。さぞかし苦しかったことであろと思います。
イタイノイタイノトンデケー(._. )ナデナデ。
でも、ぶっちゃけ浮気されちゃった、フラれちゃった、別れちゃったわけですよねー。(^<^)」グサリ
ゆう「(>_<)ぶわーん!泣」
丹下「(-.-)そんな浮気野郎はアンタの方からポイした方がイイんです。だって、あなたじゃなくて他の女選んじゃった訳だし。でしょ?」グサリ
ゆう「(>_<)ぶわーん!そこまで言うかい!」
丹下「(-.-)でも、大丈夫です。プラスに考えましょう。きっとあなたは惚れっぽいのですよ。次に会う人とならもっとラブラブです。あなたが愛にあふれた人間だからです。
こう考えましょう。
・浮気された→浮気男と結婚せんで済んだ
・フラれた→自由になった あたしが彼のウツを追い詰めなくて済んだ
・別れた→別々に独立して生きる機会を得られた
・寂しい→次の恋への原動力が働いている
どうです?何も失っていないでしょう?
物事は片面だけ見ちゃいけません。
あなたの夢は夢だった。
ですが、現実の彼は実際浮気屋だったちゅうわけで。別れて結果オーライだったのですよ。(^<^)
それでも彼が好きだというのは、確実に冷静な理性を欠いていますから、おそらく自分の物語に恋しているだけです。」グサリ
ゆう「ギャー!」
丹下「未練がキレないというのは、ほとんどの場合、MYSTORYに酔っているだけですから。」グサリ。
あ、未練を断ち切るためにホントの事をいいました。もしもし、大丈夫ですかー?」
ゆう「(゜-゜)」
もうすぐ春です。新しい恋を探しましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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