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にんげん

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カラスはインコを食べるのでしょうか。

悲鳴が聞こえました。

黒いカラスのつやつやした嘴につつかれて
ぐったりしている青いきれいな羽のセキセイインコがいました。

ぴいぴい鳴いていました。

助けてと言っていたのでしょうか。
痛いって言っていたのでしょうか。

ただ、苦しみから解放されたかっただけなのか。

みんな、誰かの悲鳴を聞き取れるのでしょうか。
私はいつも、私の悲鳴でいっぱいです。

そのうち、カラスと同じことをしているのかもしれません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悲鳴を上げているのはワタシの側 コトに意味を重ねぬ心になれ

ungezieferさん、あけましておめでとうございます。
ハスノハの害虫害獣tangezieferこと丹ゲジゲジです。🐛
カラスって悪者になりやすいものです。
見た目がキモい虫や動物って(キモい言うな)悪者扱いされやすいですね。
カラスからすれば「俺たちだって食うのに必死なんだよ🐔」ってトサカにきてるカモ?
私も私自身の心の悲鳴をたくさん聞きましてね。
そこから死ぬほど自分がみじめになって本当に全部心の中で捨てきれた時、プライドも格好つけたい気持ちも飾りも意味付けも何もいらなくなりました。
「ものに自分流な意味付けすること」って実はお飾りなのです。
本当にその事に出会うという事は、そこに私的な意味が添えられないありのままの姿をみることなのです。
インコって見た目がカワイイですが我々がカラスだったらどうでしょうか。「あいつらばっかりズルい」ですよ。
インコだって虫も食います。では虫ならばキモいのでOKなのでしょうか。(キモい言うな)虫に悲鳴はあるでしょうか。
ウチの近所の幼稚園に巨大〇ンコのPーちゃんっていう鳥がいまして。
人懐っこくて私のもとにゆっくり近寄ってきました。
おお、ついに私も手塚治虫のマンガ「ブッダ」みたいに動物がやってくる仏オーラを身につけたかと思いました。
そしたらそのイ〇コは思いっきり私の手をガブリと噛みついて( ゚Д゚)🐓即座に大出血。ヘンな菌が入ったら危うく「ほとけ」になるところでしたわい。
そんな「ほとけ」のダブルなり損ないの私が手を噛みつかれた後で思いましたが、動物は痛みはあっても「苦しみ」はないようです。私も噛みつかれた時は「イテー」だけでした。恨みとかはありません。人間なのでいつか焼き鳥にして食ってやろうとか後で思いましたが、別に今ピーちゃんを手羽先程も恨んでいません。息子が噛まれて出血した時はトサカに来てミンチにしてつくねにしてやろうと思いましたが今はモミジ、セセリほども恨んではいません。
生物はたとえライオンが松島トモ子に噛みついても悪気はないのです。これが子供がケンタにかぶりつくのあるとどうして問題がないのか。
イルカショーでイルカが可愛いと言ってもクジラを捕まえるのはどうして誰も問題にしないのか。鯨だって悲鳴を上げてますよ。ホゲー(捕鯨)って…。⛄🍂
…あ、今日はテレビでアナ雪が放映されるそうね。…少しも寒くないわ。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

【設我得仏】たとひわれ仏を得たらんに

その悲鳴を聞き届け、
両手を開いて待っているのに、
否、追いかけてきてくれているのに、
素直に飛び込んでいかない愚かさは、
あなた自身が気がつくしかないんだ。

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【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談してください。 でも、悪い事とやりたくないことはやりません。 https://www.facebook.com/rental.monk rental_monk hasunoha.tenrakuin@gmail.com
平日は夜間のみ対応可能。

質問者からのお礼

追いかけているんですか?

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