どうして死にたいという人を見過ごせないんだろう
数年前の一時期、全く通りすがりのブログに「死にたい」というSOSを続けざまに見つけたことがありました。一晩に5、6件とか。
「死にたい」は「助けて」だと思います。
希死念慮はどれくらいの緊急性があるかによって違ってきますが、プロフィールや住所などがある程度特定可能な場合ですと、公的機関…と言っても警察は事件が起きないと動いてくれないので、主にその人の地元の役所や福祉の関係の機関にお願いするしかなかったりします。ある程度深刻かも、という場合ですが。
とおりすがりの人間がコメントを入れても効果があるかどうかわかりませんし、むしろ逆効果になったりすると最悪なので、そのあたりに匿名性の限界があります。
何かやった、というにはあまりにもささやかなことですし、効果があったかどうかなんて全然わかりませんでしたが、でも何かしないといられない気持ちがさせたことでした。
過去の自分がそうやって必死になったことがあるので、自分が死にたくなった時には、もしかすると友人知人家族のみならず、見知らぬ人がどこかで祈っていてくださるかもしれない、と思って、ちょっと考える余裕を持つことが出来ています。
手を伸ばそうとしたその時の誰にも伝わっていないかもしれませんが。でもやらずにはいられなかった。大きな事故や災害の時にも無事を祈りますよね。そういう気持ちと同じです。直接に助けにいけないもどかしさはありますが。
私も双極性障害の持病があるので、よく希死念慮には襲われます。自分がすごく死にたい気分の時なのに、いまにも死にそうな人に遭遇すると、思わず助けないといられない、っていうのはなんなんでしょうね??かなり本能に近い?崖っぷちの人を助けようとしたら自分も落ちる危険があるけど、それでも手を伸ばす。人って不思議だな、と思います。(サイコパスな人の心境は不明ですが)
自分のいままでの行動でずっと不思議だと思っていたことでした。「それじゃあ、一緒に死のう」とは思わないんですよね。本能とか良心とかが関係しているのかな?とも思えますが。
もしかしたら「いまにも死にそうな人」に自分自身を投影していて、その人が救われると安堵するというか、そのへんはもう彼我の境界が薄くなっているのかもしれませんが。でもこれは私だけではない心理だと思えます。悩みつつ、行動しています。ささやかですが。
でも謎心理です。
もとより双極性障害が原因の希死念慮には悩まされているのですが、懸命に両親の介護関係で動いている時もふとした虚無感に悩まされています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きること
拝読させて頂きました。
やはり生き物としての本能です。あなたにも周りの人や目にする人にも生きることへの潜在的な本能があります。
それはああだこうだ考えるようなレベルのことではなく私達生物に全て与えられた本能、サガです。
それは本当に一つ一つ尊いものです。
あなたがそう思い行動されることも尊いことです。
どうぞその思いを胸に抱いてあなたの人生を精一杯生き抜いて下さいね。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
ご解答を拝読した瞬間に新生児の誕生の産声が聞こえました。生命はただ引き続き、ずっと生きたいと欲しているのが本能なのですね。とても腑に落ちました。
死の最期の瞬間まで握り続けていた父の手の体温や、特養で眼にした、ずっとなにかを見つめている認知症のおばあちゃんの後ろ姿や、そういうものが光を増して眩しく思い出されて涙があふれました。確かに尊いお姿です。
なぜ自分の医療のお仕事をされている方々や、保育や介護のお仕事をされている方々にリスペクトするのか、理由がわかりました。命をはぐくみ、見守り、助け、きちんと見送る、どれも尊いお仕事だからですね。
もちろんそういうふうに思っておられない方もいらっしゃると思いますが、今後は一層協力が出来るようになれたら嬉しいです。
実は昨日などは私自身が希死念慮がひどくて落ち込んでいた時でしたので、いただいたお言葉に救われました。私もこういうふうに適切な言葉を自然な感じで人に語りかけられるような人間になりたいと願います。
本当にどうもありがとうございました。これからも本能の働きで、自分の生命も他の人の生命も大切にしたいと思います。感謝致します。