信頼
ちょっと前のお話ですが、友達として接していた人に好きになられてしまいました。とてもいい人なので友達としては大切な人でしたが、束縛するタイプで私は恋愛対象としては見れませんでした。そんな私に彼はなんどもアプローチをしてくれました。ですが、私にアプローチしつつほかの女の子と遊んでいることを知ってしまい、連絡手段を全て絶ってしまいました。
後でわかったことですが、彼は私に振られるのが怖くて他の人とも同時に遊んでたみたいでした。
これでよかったとは思いつつ、とてもメンタルの弱い人なので、何となく気にかかってしまいます。私はよく遊んでいると言われますが、いろんな人とご飯に行ったり連絡を取り合うのはそんなにいけないことなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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信頼とは
同じことをしていても自分は「仕方がない(正当な理由がある)」として、他人は「許せない(正当な理由がない)」としてしまうような自分中心の執着心が人間にはあるものです。
あなたがいろんな人とご飯に行ったり連絡を取り合うのは何もいけないことではないでしょう。
では彼が「他の人とも同時に遊んでたみたい」なのはどうなのでしょうか。
もちろん「遊んでいた」の内容にもよるのでしょうが、得てして人は自分の言動は正当化しつつ他者は非難してしまうものです。
さて、世俗的な見解から申しますと
周りからの評価は現実的に私たちの心に様々な影響を及ぼしますが、しかしそれ以上に影響が大きいのは自分自身の納得でしょう。周りからとやかく言われようが自分自身が納得しているかどうかが本当の満足につながります。
というアドバイスになりますが、もう一歩踏み込みますと、この「自分自身の納得」にふり回されるのがこの私の姿であると仏教の教えは教えてくれます。
「こうでなければならない」「こうすべき」
といった「自分自身の納得」=「我が思い」に振り回されるのです。しかし私のものだと思っているこの「我が思い」は実は周りとの様々なご縁によって勝手に湧きがあってくるものですから思い通りになりません。それなのに様々な思いの中から「これこそが私の本心だ」と選び取って執着してしまうと思いとそうはならない現実の差に葛藤が生じるものです。
仏教の教えや実践によってこの「自分自身の納得」=「我が思い」への執著を捨てられるというわけではありません(そのように説く教えもありますし、仏教本来はその方向性です)。
しかしそのように自ら苦しんでいる姿を教えから知らされ我が身に頷かされることによって自他への眼差しは変わってくることと思います。
あなたのご質問のタイトルの「信頼」とはゆだねまかせることであって、我が信(思い)を押し付けることではないのですね。
あなたがどうふるまうかに「そんなにいけないこと」ということもないのでしょうが、しかしそれについての周りからの評価は周りにゆだねまかせなければならないのです。