つかれました
数年前に友人を自死で亡くしました。私は一貫して自殺も死の一つの結果に過ぎないと考えていたので、仮にあの世があるならば安楽に生活していると思います。
それはそうと、予定外だったのは友人の死が私を苦しめているということです。
友人は人を思いやる気持ちが人一倍感じられ、常に優しさで溢れていました。
はっきりいってこの世の人間の大半は自分を含めて糞ですが、そんな中で例外的に糞では無かった友人を亡くしてこの世に生きる意味というのも失いかけています。
翻ってこう思うのは自分が人間に向いていないというか、社会不適合者なんだと最近は思うようになりましたがこんな人間でも出来るだけ楽に生きる心構えというのはありますか。それとも前向きに自死を検討するのも一つの方法だと思いますか。
また上記とは別に病苦もあり肉体的にも苦しめられています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もうボスを倒せるが、さらにレベルアップしてから
私は子供の頃、ドラクエ(ロールプレイングゲーム)をやりました。
このゲームは、色んな経験を積んで自分の「レベル」を上げたら強くなっていきます。
で、最終的には、ボスキャラを倒しに行きます。
ボスキャラを倒すためには、まずボスキャラの場所にたどりつく準備が必要です。ゲームの中で色んな謎をといて、ボスの場所もみつける。
さらに、自分が、最低限ボスに勝てるレベルに達している必要があります。
ただし、ボスをぎりぎり倒せるレベルでボスに挑む方法もあれば、ボスを余裕で倒せるレベルにまでレベルアップしてからボスを倒しに行く方法もあります。
浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば、死後に極楽浄土に往生できると説きます。
そして、極楽浄土という悟りやすい環境で、いつか必ず悟れるのです。
つまり、一回でも南無阿弥陀仏と念仏すれば、ボスキャラを倒せる(極楽に往生して悟れる)レベルに達しているのです。
しかし、私達は、すぐに死んで往生するわけではありませんよね。
生き永らえて、毎日南無阿弥陀仏の念仏を称(とな)えていれば、さらに念仏の功徳がつもります。
つまり、極楽浄土にすぐに往生せずに、念仏生活を積んでいれば、この世(ボスの城に行く前)において、どんどんレベルアップしている状態なのです。
一回でも念仏できれば、もうボスを倒せるレベル。さらに念仏生活が長引けば、もっとレベルアップしてから満を持して、極楽浄土に往生するのです。
亡くなった友人とも極楽浄土(ボスの城)で再会できる可能性がありますが、あなたは、事前にこの世でレベルアップしまくってからあっちに行けばよいのです。
そのために、少しずつでも仏教を学んでみてください。
また、あなたが長生きできたら、この地球上の最新ニュースをあの世に持って行って、友人に話してあげましょう。
50年後には、人類は火星に到達しているのでしょうか?
質問者からのお礼
願誉浄史 さま
早速の御返信ありがとうございます。また分かりやすく解説をしていただきありがとうございます。
和尚さんの仰る念仏生活というのは仏教に疎い私には具体的にイメージするのは出来ませんが、ただそれをレベルアップには"色んな経験を積んで"と例えられているので人生そのものだと今は理解しました。
私はスマートフォン版のドラゴンクエストのレベルを最大にしました。でもそこには何の苦痛も無く、寧ろ喜びすら感じていました。
その反面亡くなった友人はひたすらストーリーを進めるタイプでしたが、現実は二度も大病を患いながらも決して弱音を吐くこともなく、寧ろ入院生活を楽しんでいたように思えます。
残念ながらゲームのように楽しんでレベルアップするにはいかない生活が続いていますが、極楽浄土で亡くなった方々と再会出来るのであればもう少しだけ頑張ろうと思います...せめて東京オリンピックの話が友人に出来るまで目一杯頑張ろうと思います。
この度はありがとうございました。