私は何をしたいのでしょうか
欲がありすぎて、すべて等しく欲しくて、決めかねた結果どれも要らなくなってしまいます。
煩悩を捨てたくもないしすべてが面倒です。死ぬことすら面倒です。
考えることも放棄したいです。
でも行動は放棄すると収入が得られなかったり生きることに必要な手続きが進まなかったりするので放棄できません。惰性でやっています。
諦められません。
執着を捨てられません。
私は何をしたいのでしょうか。どうやったら答えが出ますか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
リスト化による管理から
サラ美様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
とにかく、やるべきこと、やらなければならないことを、まずしっかりと取り組み、時間やお金に余裕ができれば、優先順位でしたいことを一つ一つしていかれる、というのはどうでしょうか。
そのため、基本的に絶対決まっているルーティン(起床・通勤等)は別に、前の日に、翌日にやるべきこと、やらなければならないことのリストを、メモして書き出しておいて、一日の終わりに充足、充実のチェック、あるいは、見直しや反省のチェックもしつつ、次の日のメモを書き出す・・
それとは別に、余裕ができた時にしたいことの優先順位のリストを書き出しておいて、余裕ができた都度にそれを参考にして行動していく、というのもどうでしょうか。
頑張った自分へのご褒美リストなどもあると良いでしょう。
更には、中期的、長期的なことに分けての夢や目標のリストも良いかと存じます。
マンネリにならないように、何か趣味や旅行などのしたいリストもあると良いでしょう。
次に、煩悩・執着というものは、捨てよう、捨てようと思って捨てられるようなものでは、実はありません。
そもそも捨てる何かがあるというわけではなく、煩悩・執着も実体としては無いものですので・・
少し難しいことですが、煩悩・執着というものは、「因縁」(原因と条件)によって成り立っているだけであり、因縁次第で、増えたり、減ったりするものとなります。もちろん、ニュートラルな時もあり得ます。
因縁次第では、起こさないようにする、完全に無くすことだってできます。
その方法については、仏教を学び修することによって可能になりますので、是非、これを機会に仏教にも少しずつでも興味を持って頂けましたら幸いに存じます。
とにかく、当面は、減らせるような、ニュートラルとなるような、そんな因縁を作ってあげればよいのであります。
そのために、まずは、色々とリスト化による管理により、「惰性」を直していくということから始められると良いのではないかと存じます。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
思いは思いにすぎない
私はいま、やりたいことは特に何もありません。
しかし、目の前にあることで、気になること興味のあることをただやっています。
将来のことや、過去のことは特に考えません。
しかし、充実しています。
不安もありません。面倒なこともありません。
考えることは、考えようとして考えるというより必要な時に自然に考えているのではないですか。
面倒かどうか評価を下す前に考えている。
欲しいものも本当に欲しいのかどうか見極めることが大切です。考えているうちにいらなくなってしまうようなものは必要ないのでしょう。
今あなたの中に「ネバナラナイ」「のほうがいい」「「〇〇べき」といった考え方がありませんか。
そうした考え方に振り回されて自分で自分を苦しめているのではないでしょうか。
評価するそのような思い、考えはいったん置いておいて、事実に生きることを大切にしてください。そのことで、見えてくるものがあるのだと思います。