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愛情vs.束縛

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有り難し有り難し 11

数年前から、私はカウンセリングを受けるようになりました。今では信頼関係も築けていて、前より少し自分の置かれている状況を、カウンセラーの方(他人)に話せるようになってきました。

話せるようになることで、少し気持ちが楽になる反面、言わずに生きてきたことで保てていた心のバランスが揺らぐことがあります。私が余りにも話せない性格だったこともあり、カウンセラーの方が頭を抱えてしまうこともしばしば。時には、カウンセラーの方がいったん部屋を出て考える時間が必要になることもあります。

hasunohaでは、私は饒舌っぽいかも知れません。そう思われる方が多いかも知れません。が、カウンセリングに通って数年経った最近の私がここhasunohaを訪れていると思っていただければと思います。

私は、親から本当に大切に育てられたなと思っています。愛情に飢えた人生だったとは思っていません。その代わり、見えない呪縛のような、すごい束縛された人生だったりしたことも、少しずつ見えてきました。

過去をこちらに書ききることは困難なので、今現在の私の中の1つだけ書かせていただきます。

私は今現在障害者なので、出来ないことがあるのが事実です。ですので、今現在、すぐに実家を出て行くことも難しいと分かっています。だから、親から何を言われても我慢するしかなかったり、どんな扱いをされても反抗出来なかったりもします。

が、「それはおかしいのでは?」とカウンセラーの方から言われることも多く…例えば…

親の買い物の仕方は、買い物に行って実物を見て購入する、それが普通。私の買い物の仕方は、買い物に行けないのでネットを見て購入する、それが普通。でも、ネットを見て購入する、は親からしたら普通じゃなくて不満に感じるので、何を購入しても、毎回何かしら文句を言われる。でも、お互いの普通が普通じゃないので、私は言われるがままになるのが普通です。

買い物する=お金を使うこと。親は心配してくれているのかも知れません、でも、何か違う。親の機嫌が悪いと「通帳全部持ってこい!」みたいになります。全部管理したいのです。

分かり易いので、買い物を例にしましたが、その他もほぼ全てが「愛情か束縛」が判別不能で、私の頭の中は「?」でいっぱいです。

根源は同じなのに、何故、愛情が束縛に感じるのか?分かり易くご説明いただければなと思います。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

関係性が重要なのでは

う~ん…非常に難しい問題ですね。解説や解釈をし出すとまたこんがらがりそうな気もしますが、豊島さんにとって大事なところなのだと思います。

お坊さんが言ったことが正解と言うことではありませんので、ご自身の考えやカウンセラーの先生の考えも含めて総合的に判断していってください。

私たちの「感情」あるいは「行為」にこれは「愛情」これは「束縛」というように種類があるわけではないのだと思います。

ただし仏教的に見ればすべての「感情」も「行為」も「無明」という根本煩悩から生じている者ならば総じて「執着」ということになるとは思います。

まあそれはここでは置いておくとして、「愛情か束縛」の判別は行為者側、受け取り側それぞれにあることでしょう。なのでその行為自体に絶対的にこれは「愛情」これは「束縛」と判定をくだせるわけではないでしょう。

そして行為者側、受け取り側がその行為や感情をそれぞれに判定する際の判定基準に大きく影響するものとしてその当事者間の関係性があると思います。

「親子関係」と言えば聞こえは良いかもしれませんが、それがいつまでも「親」と「子」という「上下関係」や「支配-被支配関係」であるならば、親の側がいくら「愛情」と認識しても子の受け取り方は「束縛」に傾くでしょう。

「買い物はやっぱり通販じゃなくて実物見てでしょ!」という意見が親ではなく友人関係から発せられたものならどうでしょう。その友人との間には「上下関係」ではなく「フラットな関係」が構築されているとしたら、「あなたの意見はそうよね、でも私はこうなの」と相手の意見をききつつも受け流せますし、そこにはそれぞれの認識の違いがあるだけで、相手を自分と同じようにしようとする束縛や支配は見られません。

つまり、豊島さんの親御さんが子離れし、豊島さんは親離れし、一人の人間と人間として、関係を再構築するとよいのだと思いますが、そのためには様々な難しさもあるのだと思います。
一番は同居解消でしょうが、経済的な条件もあることでしょう。親御さんの方のカウンセリングも有効かとは思いますが受けてもらうことも難しいのだと思います。

なので複雑な思いもありますが、被支配者側が立ち上がらなければならないという厳しい現実が様々な問題においてあるのだと思います。

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有り難し
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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

吉武文法様、お返事ありがとうございます。

自分自身の中にも大きな問題を抱えていると思います。

変わるなら私自身が変わらないといけないと思っています。

親は、親として長い時間生きてきたので、二人の気持ちや何かを書く変えることは難しいと思うからです。

ただ、話し合おうとしても、喧嘩にはならないです、一方的に言われっ放しになるだけです。

それに、親は私の精神科医もカウンセラーも全く信じていないので、私は通っていますが、親は仮に一緒にカウンセリングを受けるとしても、自負たちの主張が通らないなら腹をたてるだけで、そうなると私は通院すら認められなくなります。

いちいち不自由だと思っていませんが、自由じゃないことだらけです。

全否定されると不自由になるので、出来る限り「今が一番マシ」と思うようにしています。

憲法だって何のその。私の家には、宗教の自由、信仰の自由もありません。

私が親に秘密で勝手にいろんな宗教を学び、その流れの中で仏教との出会いがあり、深入りするつもりはなかったですが、こちらのhasunohaに辿り着いたので、自分のことを書かせていただいている感じです。

私は、信仰の自由も必要かなと思いますが…

いろんな宗教を学ぶ為に、いろんな宗教の本を借りたりもしましたが、特に私が仏教に進みがちになった時には、「おまえ変な宗教に巻き込まれているんじゃないだろな」と言われました。

無宗教がいいのです。

宗教っぽいことは、どんな宗教であれ毛嫌いされます。

母に至っては、「私が神様だから」と言うし思うしで、「宗教とか信じている人はイヤ」「宗教なんかに頼りたくない」「そういうのに関わる人は嫌い」と声を大にして宣言しています。

父は、毎日、自分の親から受け継いだお仏壇の前で、必ず2~3分は手を擦り合わせながら、頭を下げながら、何かを話し掛けている様子を見せますが、これがまた宗教嫌いで、母と同じく、信仰などもってのほか、絶対的に寄せ付けません。

でも、信じることも信じないことも、自由なはず。

宗教だけではなく、とにかく、あれはダメ、これもダメだらけです。例えば、ゴミを捨てに行くとなると、「何を今度は捨てるんだ?」となってしまいます。

それでも、私は密かにいろいろ頑張っています。逆らえないクセに好奇心旺盛な性格ですので。

ちょっと親に反することをしてしまった時、この前はカウンセリングで「最近、悪知恵がついてきた」と話すと、カウンセリングの最後に、カウンセラーの方が「自分がすることを悪知恵と思わなくて済むようになると良いですね」と言われました。

仏教は好きです。仏様の教えも素晴らしく感じます。

私は、考え方が親に似てないのかも知れません。

何でも言いなりだし、何色かに染まっていそうですが、まだ何色にも染まっていないのかも知れません。

未来は暗いのに明るい。

矛盾した答えかも知れませんが、「愛情vs.束縛」でも、この窮屈な心は自由なままなのです。

hasunohaに辿り着いたのは、奇跡的ですが、当然辿り着く道であったような気もしています。

入り口が狭くても、広い世界がこの世にはあると思います。

信仰の自由も例外ではなく、うちでは全否定が当然ですが、私は不自由だからこそ自由だと感じます。

仏教も、必ずと言えるほど、ダメなもの不必要なものとされていますが、ダメじゃないし必要と思っています。

親に迷惑をかけさえしなければいいのです。

何も言わないでいることが、私の一番の自由。

この環境どうにかしてくれ~!!!と思わない訳じゃないですが、私は自分自身を見失わないように、自分自身を研ぎ澄まさせながら、「我がまま」に生きていきたいと思っています。

ワガママは言いませんがね。

きっと大丈夫。

親の機嫌を損ねないように、束縛されても自由を忘れず生きていくのみです。

この色に染まれ!と言われる程に、私は何色にも染まらないのです。

その無色の世界の中に住みながら、私は仏教も大切にしていきたいと思っています。

ちなみに、私のカウンセラーの方は僧侶です。

私は…もしかしたらラッキーな人間かも知れませんね。

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