「人を愛する」とはどういうことか
お世話になります。今回は、恋愛における連絡についての考え方を通して、「人を愛する」ことの意味について、お知恵を拝借したく相談を寄せました。
私には好きな人がいます。彼は、連絡頻度がかなり少ないです。それが原因で、「私は本当に愛されているのだろうか」「もしかしたら、もう飽きられているのだろうか」などと考えてしまい、不安が募るばかりです。彼からの連絡一つで、一喜一憂する日々です。
しかし、「人を愛する」という、より大きな視点から見た時には、連絡なんてほんの一要素に過ぎないようにも思います。特に現代は、人と人との距離が過密であると思います。恋愛というのは、古くからある人間の普遍的な事象なので、本来は、連絡一つで恋愛が左右されることはないのではないでしょうか。
このように、連絡頻度や、巷の恋愛攻略法などに翻弄されていては、本質的に「人を愛する」ということができないのではないかと私は思います。
ここで、ご質問があります。皆様は、「人を愛する」とはどういう状態を指すと思われますか?何をもって、それが「愛」と定義できるのでしょうか。
ご教示頂ければ幸いです。
どうぞ宜しくお願い致します。
他者比較 過去の自分への自己嫌悪 夢や希望がない 好きなことがない、趣味がない 生きがいがない 特技や能力のない自分を愛せない 欲の多さ
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人は「愛され生かされて、生きている」という真理
人は人を、(意図して)愛そうなどと思わずとも、知らず知らず愛してしまうものなのではないでしょうか。人の心はいつだって、自然に動き、自然にはたらくのでありましょう。そのおかげで、さまざまな出来事を通して、自然と、その人のことが愛おしく思われ、守りたいと思えたり、一緒にいたいと思えたりする。そのときの心のはたらき、精神活動や精神状態を指して、先人たちは「あい」と呼んだのではなかったでしょうか。だとすれば、愛とて一様ではないはずで、がんばってこれを定義付けしたとしてもどこか中身を取り零してしまうようなことになりかねません。心のはたらき方は、十人十色ですから。愛し方にも人それぞれ千差万別の愛し方というものがあって、自分なりのものは、丁寧に(粗雑な原石から美しい彫刻を掘り出すように)焦らず少しずつ見つけていけばよろしいのではないでしょうか。
愛をほんとうに理解するためには、愛をかぎかっこに閉じ込めて、頭の中で「愛」についてあれこれ考えるばかりでは足らず、心がさまざまに揺れ動くような多くの実体験を通じて、自らそれに気付き、それを直接それとして実感する経験を重ねていくほかないのではないかな、とわたくしは思います。焦って出した答えなど、屁の突っ張りにもなりますまい(笑)。もとより、人が(天のもとに)生かされているというのは(天に)愛されているからこそであり、今ここに生きていることこそが愛されている証しであるように思われます。一切衆生悉有仏性、以てこれすなわち「生きとし生けるものは、みなすべて、生まれながらに愛されている」というふうに解してみてもよいのではないでしょうかね。少々意訳が過ぎるかもしれませんが…、きっとお釈迦様も否定なさらないはずです。
あまり明快な回答ではなくご期待に添えなかったかもしれませんが、いくみさんがこれから先のご人生を通じて真の理解を深めてゆかれるうえで、ほんのわずかばかりでも今回の問答がその一助となりますれば幸いでございます。
そわか合掌
愛とは愛っぽい愛ばかりではない
人間心をおさめて静かに自分が今、授かっていることに目を向けてみると、すべてがこのわが身のために行われていることばかりでそれだけで愛を感じられて感謝感激、涙がアフレ🦆(ToT)ちょちょぎれるものです。
存在してくれているだけで愛を感じられるようになるものです。
こちら側のBEINGも愛。
相手の存在、BEINGも愛。
別に愛といわなくてもいいのですが、赦せるのです。
条件付きでなくても、その人がその人として最高に存在していることで、そのこと、その様子を授かれる。
美味しい料理を作ってくれても、時に失敗してしまってもそれもありがたい授かりでしょう。
ただし、そこで大事なことを一つ。
「あらかじめ愛を想定してはいけない」
最初からこういうものだというものを持たない。
先立てていることが強いと、心を静めてもそれがわからない。
例えば音楽でこだわりのある人というのは、自分の好きなジャンルしか聞かない。
するとほかの音楽が素晴らしくても授かれないでしょう。
同じように、愛とはこういうもんだろう、こういうことが愛に違いない、テレビ、ドラマで恋愛というとこんな感じだからいかにもな愛を求める、描く、それらしくしようとする。
あなたがあなたの家庭に生まれて無条件で親御さんがあれこれ心配してくれて育ててくれた。こんにちまで、さほど不自由なしに、施されてきた。恵まれてきた。頂いてきた。授かってきた。この存在、BEINGしているだけで授かりっぱなしな事実を静かに感知してみることです。
すると、素直にありがとうという気持ちがわいてくるものです。
この自分に何かをしてくれる人、サポートしてくれる人がありがたいのです。
ましてや自分の好きなことを提供してくれる人であれば本当に大切に感じられることでしょう。
そのぐらい人というものは、生命が本来欲する何か良い形としてある。
美味しい料理もおいしいという事を教わらなくてもこちらの方がおいしいものに触れるとおいしいとわかる。
愛にあふれた人も、愛を知らなくてもその人の愛に触れれば温かい。
そういう愛に恵まれなかった人は、自分もそういう愛をアウトプットすることも苦手だと思いますが、それでも愛に触れれば、愛が発動するものです。
大それた愛でなくても、こちら側のセンサー、感受性が豊かであれば、存在するものの随所に愛を感じ取ることはできるものです。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
相手の存在をあるがままに受け入れることこそが愛なような気がしました。そこに、確実で明確な答えなど必要はなく、自分自身の心の在り方や、相手に対して自分に働く感情や感性を大切にしていきたいと思いました。
この度は、ご丁寧に温かいお言葉の数々を紡いで頂き、本当にありがとうございました。