私はいらない存在?
愚痴を聞いてほしくて書きます。
私はいらない存在ではないでしょうか。
周囲からも、もちろん自分からも評価された事がないんです。
端的に言って、「自分に存在価値はない」「だから今すぐ死にたい」です。
誰も私の事なんか必要としていません。というか、必要とされた事がありません。
「そんな事ない」と言ってくれる知り合いはいますが、全然信じられないです。むしろ「私は客観的事実をもって自分は必要ない事を説明しているのに、どうして分かってくれないんだろう」と怒りすら覚える始末です。
こんな考えでは人付き合いも難しく、自分に利益がない事も分かっていますが…。
昔は、好きな漫画の続きが気になるから生きていよう、くらいには考えられたのですが、
最近では好きだったはずの趣味ですらどうでもよくなりました。
そうなると、いよいよ自分が何故生きているのかわからなくなってしまいました。
こんな状態でどうやって生きればいいんですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なぜ生きるのかわからない、そこからが本当の始まり
愚痴を聞かせていただきました。
あなたは今自分に存在価値などないと感じているのですね。そして死にたいと思うまでに辛く悲しく苦しい状態にあるのですね。
他者はあなたの気持ちは完全にはわからないのです。わからない人の意見で自分を裁く必要も、わからない相手を裁く必要もありません。
なによりも自分で自分自身の気持ちを裁く必要もありません。どんな気持ちも自分で起こしたものではなく、自分を取り巻く様々な条件から湧き上がってきたものです。
そのまま「これが今の私の気持ちなのだな」と全肯定してあげましょう。
さて、
>こんな状態でどうやって生きればいいんですか?
と問いをいただきましたが、他者から与えられた答えはそれもあなたにとっての正解とはならないでしょう。
>こんな考えでは人付き合いも難しく、自分に利益がない事も分かっていますが…。
とおっしゃる通りに、どんなことも損得勘定で裁いていく限りはしんどくなるばかりなのです。
結局は人生すらも、コスパ悪い・メリットない、という損得勘定からの裁き対象に成り下がってしまうのではないでしょうか。
損得勘定は自分の納得を求める心です。自分の思う悪いことは必ず悪い結果を生んでほしい、良いことは必ず良い結果を生んでほしい、その良い・悪い、損得の勘定が自分の思う様に合わないと納得できないというものです。
しかし実際には世の中も自分自身も私の納得以前に成立しています。いくら納得を求めても条件がそろわなければ成立しません。条件がそろっても今度は喪失が気になりますし、そろったと思ってもなんだか満たされなない。それどころか期待はずれなまでに余計な心配事・新たな不安もくっついてくる始末。
そのようにどこまでいっても損得勘定の納得を求める限り満足することはないのです。
>そうなると、いよいよ自分が何故生きているのかわからなくなってしまいました。
ということです。
でもこの気づきは実は大事なスタートでもあるのです。「〇〇のために生きる」と思っていた「〇〇」がどれも不完全でしかないこと、不安定な条件に過ぎないことに気づく時、どんな条件下でも私が私に自体満足していかないと安定はないと目覚めるのです。
なくならない苦悩を損・悪として退けようとするのでなく、避けられないものとして本当に真正面から苦悩していくところに道は開かれるのでしょう。
質問者からのお礼
真摯なご回答、本当にありがとうございます。
このような愚痴、きっと一蹴されてしまうだろうと思っておりました…。
仰る通り、私は自分自身に一番満足していないのかもしれません。
満足していないから、周囲の感謝や需要を求めてしまうのかもしれません…。
自分自身で満足する…その為にはどうすれば良いのでしょうか?
それとも、それこそが仏教における修行なのでしょうか。
私は、そうなるまでに何度も何度も間違いを犯すのだと思います。いい大人なのに。それはとても怖い事です。
その恐怖に打ち勝てる自身はまだありません。
それでも、こんな私でも見捨てないでいただける方がいる限り、もう少しだけ頑張ってみようと思えました。
ありがとうございます。