苦しみがあるおかけで幸せを感じることができる?
いつもお世話になっています。
きょう、学生時代の慣れない集団生活の夢を見て気分悪くしながら起きたのですが、起きた瞬間夢で安心しました。
今の現実は自由で集団生活に縛られないからです。
そこで思ったのですが、苦しみがあるおかげで幸せを感じることができるのではないでしょうか?
私は子供の頃は貧乏でアパートに住んでいたのですが、そのおかげで今は一軒家を買って住んでいるのですが凄い幸せです。
これを考えると苦しみも幸せを実感させる要素として必要なのかなと思えるのですがお坊さんの意見を聞かせていただければと思います。
いつも親切に回答していただき本当にありがとうございます。
自我を捨てるのが恒久的な幸せを手に入れる方法だと信じている男です。 自我を捨てたいです。
女に対する執着。自分を良くしたい・良く見てもらいたいと思っている願望・自己顕示欲。 性欲など。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一切皆苦
ご相談拝読しました。
>苦しみがあるおかげで幸せを感じることができる
というのはもっともなことだと思います。苦労があったからこそ、それに比べてみると幸せ(楽)を感じられたり、現状に感謝出来たり、また現に苦しんでいる人にたいして思いを馳せられたりということはあるでしょう。
しかし仏教的に考えるならばそれは苦に対して比較し感じた楽であり、それもやはり苦であると考えるのです。
苦苦(くく):苦痛を苦とすること
壊苦(えく):楽が去ること・崩れること・変化することに感じる苦
相対的な楽というのはその相対する諸条件に条件づけられた楽であり、条件の変化によりやがて壊れてしまうものであるのです。
よって
行苦(ぎょうく):作られたもの(条件づけられたもの)、つまり生存していること自体が苦(思い通りにならないので不満足である)
ということに至ります。「一切皆(行)苦」ですね。
だから仏教は不苦不楽の中道を説きます。条件づけられた楽ではなく、苦楽の二辺をはなれた中道、究極的には涅槃ですね。
しかしどうでしょう、私たちはそういう境地に達することが出来るでしょうか。
もちろん仏道本来はそこを目指します。でもそうできない我が身のために用意された仏道もあるのです。
不苦不楽に達することはできなくとも、今自分が感じている苦楽は苦なのだなと、でもそれに執着する我が身もまた捨てられないのだなと知らされるからこそ現実を問うていける道です。
ですからあなたの苦労はけして無駄ではないのです。現にあなたが苦労を通して今について考えられているのですから。
幸せは比べるものではない
こんにちは。
うーん、そういう幸せの感じ方もあるかもしれないけど、比べる幸せは本当の幸せではないと思うよ。今は自分の中で比べているけど、これが「あの人に比べたら」などということをはじめると、差別思想にもつながります。
私も集団行動が苦手ですが、そのイヤな集団行動の中でも、楽しい事があります。なくてもがんばって探して「ああ良かった。幸せ」と思うようにしています。
また貧乏やアパートがそのまま不幸という事ではないでしょう。その生活のなかにかけがえのない大切なものがあったのではないでしょうか。
比べるのではなく、どのような状態にいても、今幸せであることに気がつく事だと思います。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
お二人の回答を見て私はまだまだ人間として未熟であることを理解いたしました。
比較は本当の幸せではないというのはおっしゃる通りで、知らずしらずのうちに私は比較思考になっていました……。
本当に勉強になりました。ありがとうございます。
比較して幸せを実感するのではなく、今に感謝して生きたいと思います。もちろん頭ではわかっていても実践するのは難易度は高いですが。。。
それにしてもハスノハのお坊さんは素晴らしいですね。こういう質問でも本質的な回答が返ってくる。
しかも反論の余地がないだけに私の未熟さを知って逆に気分が良いです。
ご回答に深く深く感謝いたします。