座禅をしたいので詳しいやり方を教えてください。 一日何分くらいやればいいですか?
ありがとうございます。 座禅の指導を受けたことはありません。 座禅をしようと思ったのは悩みごとが多いので座禅で心を整えることで解決できないかと思っただけです。
昔から瞑想をしていたのですが、井上貫道さんの「げんにび」を読んでから坐禅に興味を持つようになりました 事情で障害年金で生活しており、田舎で車もないため、指導者を探すのは難しそうです どうしたらいいでしょうか?
度々質問させて頂いてるものです。いつもご説法ありがとうございます。 私の人生目標は優しくなりたいなのですが、 ちかくのお寺のお坊さんにご相談させていただいたところ優しくなるためにはとにかく座禅をしてくれとご説法いただきました。 そこで質問なのですが、とにかく暇な時間に座禅をするのと、恋愛を通して人生経験をして、子育てをしてなお座禅をするのではどちらが優しくなれると思いますか? ご説法お願いします
坐禅して、無我に成れば、大抵の悩みは無くなると思うのですが、いかがでしょうか?
自宅で座禅をしているのですが、結跏趺坐をすると15分~20分で左足がしびれ始め30分を過ぎるころには完全に足先の感覚がなくなってしまいます。 40分ぐらいまではなんとか我慢できるのですが、終わったあとはしばらく体育座りや膝立ちの状態で足先に体重をかけて痺れを取らないと、とても歩ける状態ではありません。 そのほかの痛みは特になく、強いて気になるところがあるとすれば、両足のスネが交差する所がどうしても当たってしまって赤くなり、やや痛む程度です。 体形は普通で、脚全体に肉がついているというようなこともないです。 自分なりの工夫としては、股関節を柔らかくしたほうがよいかと思い、真向法の体操などを行っていますが、始めたばかりなので効果はまだ自覚できていません。 普段から座禅をされているお坊さんは、何か足が痺れないコツや工夫があるのでしょうか? 教えていただけると嬉しいです。
ドラゴンボールのピッコロは、瞑想(めいそう)で精神統一して、強くなってますよね。 だから、私も坐禅(ざぜん)したら、強くなれると思うのですが、どうでしょうか? 無我ひろき 坐禅、読書、囲碁、将棋。
鈴木俊隆師の「禅マインドビギナーズ・マインド」を読みました。その中に、「自分自身を完全にもやし尽くすのです。... 禅とは、常に完全に燃やしつくして、灰しか残らないことをいいます。」 これは、「只管打坐」ということでしょうか。それとも、他にこの意味合いの語句がありますか。教えていただけたら大変嬉しいです。
法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。
こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
自分は最近自宅で坐禅をしています。 自分は最初曹洞宗のお寺様での坐禅をさせていただいて作法などを教えて頂きました。 そのお寺のご住職様が自宅でも坐禅を少しの時間でも良いからやってみなさいと言われました。 そこで最近家で坐禅しているのですがいつも雑念が湧いてしまいます。 お寺様では警策を打って頂けますが自宅ではたとえ雑念などが出てきても警策は頂けません。 そしてお寺様になかなか行けないため自宅での坐禅に励まざるを得ません。 そこで質問なのですがどうやったら自宅で坐禅をするとき雑念を抑えることが出来ますか?またお寺様にある坐蒲が自宅にはありませんどうやって代用すれば良いですか? かなり読みずらい文章ですいません。 ご回答よろしくお願いします。
躁と鬱と私と共に生きる西條るじん僧侶
和歌山の駆け込み寺・中田三恵住職
「心の厄がはがれていく本」をご紹介!
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仏教の根幹となる教え
仏教が説く8つの苦とは