執行草舟氏について
執行草舟という方をご存じでしょうか。
この方は「絶対負」という概念を提唱されて、思想家として活動しておられる方です。
また、武士道を中心として禅やキリスト教にも造詣が深く、3万冊もの本を読破された読書家でもあります。(YouTubeで動画を公開されています。)
この方は、現代の既成の宗教を批判されており、
「今の宗教は良いことしか言わない、死に体」
「本来、坐禅などの宗教的修行は『死ぬために』行っていたものなのに、今や『良くなるため』(成功するため、健康のため等)の修行になってしまった」
(江戸時代までは修行で死人が出るのは当たり前だったのに、今や千日回峰行でもドクターストップがかかる時代)
と言っておられます。
また、ホモサピエンスの将来にも極めて悲観的であり、
「ホモサピエンスは滅びて、AIの家畜になる」
「我々は滅びるのは『きっとまだ大丈夫だ』、『未来はなんとかなる』という人々の『希望』によって滅びる」 (この『希望』は悪徳だけではなく、宗教家も『希望を失ってはならない』と言っている)
等とおっしゃっています。
私は、執行氏のこのような思想に非常に感銘を受けました。
以前、禅寺で修行をしていたのですが、堂頭さんや先輩の言われることは、どうも仏教の枠組みの中で閉塞しており、現代の時代状況から解離していて、救いにならないように私は感じていました。
その違和感が、執行氏のお話によって氷解いたしました。
そこで、お坊さま方にお伺いしたいのですが、
①執行氏の既成宗教への批判について、どのようにお考えですか。
②執行氏の批判が正しいとするならば、現代においてきれいごとではない本当の仏教を信仰することは可能でしょうか。
以上、二点をお伺いしたいと思います。
よろしくお願いします。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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修行しましょう
①執行氏の既成宗教への批判について、どのようにお考えですか。
その方のことはよくわからないので、どうこう言えませんが一つの思想であり、そこに善悪はないととらえております。
②執行氏の批判が正しいとするならば、現代においてきれいごとではない本当の仏教を信仰することは可能でしょうか。
仏教はもともと綺麗事ではありません。真理そのもの。真理を語り実践し、真理に生きる私たちの生き様に気づくもの。頭で考える哲学や思想とは違うものです。ですから本を読んで知識を身につけることを仏教とは言いません。
人がどうのこうのはあなたには関係ないでしょう。あなたが救われなければ意味がない。だから正師について実践が必要なのです。
己が己を救うとき
質問いただきありがとうございます。
私もあらためて宗教について仏教とはと改めて考えさせられました。
貴方が「絶対負」という言葉に深く心を動かされたのは、きっと安易な希望や慰めでは応えきれないほどの現実を生きてこられたからでしょう。
その重みを真正面から受けとめられたからこそ、「滅び」や「敗北」を見据えた思想に、真実の光を見られたのだと思います。
執行氏が申されるように、確かに現代の宗教は「よく生きるための手段」として消費されることが多くなりました。
坐禅や念仏は本来、死を引き受けるための稽古であり、自己を超える道であったのに、今や「健康によい」「集中力が高まる」といった効能に還元されがちです。
しかし、忘れてはならないのは
「宗教が死んでいる」のではなく、「わたし自身が生きた宗教の中に生きているか否か」が問われている ということです。
釈尊は入滅に際し「自燈明・法燈明(自らを灯とし、法を灯とせよ)」と遺されました。
つまり、教えも師も時代も、必ず移ろい衰えてゆく。
そのなかで「死に体」と見える宗教を生き返らせるのは、結局のところ 一人ひとりの実践 なのです。
仏教もまた、「一切皆苦」と説きます。
生きることは思い通りにならず、老いも病も死も避けることはできません。
この意味で、仏教と「絶対負」は同じ地平に立っています。
けれど仏教は、その苦しみを拒まず、抱きしめながら歩む道を示してきました。
希望にすがって目を逸らすのではなく、かといって絶望に沈んで立ち止まるのでもなく、「ただ、今この一歩を生きること」です。
したがって、執行氏の批判は的を射ていますが、それを「宗教が死んだ」と結論づけるのではなく、
「では自分がどう生きるか」と問い返す契機とすべきなのだと思います。
「きれいごとではない仏教」とは、
希望に溺れず、絶望に沈まず、ただ一歩を歩む仏教です。
それは特別な時代や場所に限らず、現代においても確かに可能です。
なぜなら仏教は経典や制度の中に閉じ込められているのではなく、
あなたの呼吸の中に、坐る姿の中に、そして日々の暮らしの中に、すでに息づいているからです。
仏教とは、与えられるものではありません。
己が己を救い、己が仏と生きる道。
その道を一歩でも歩もうとするとき、現代においても「本当の仏教」は必ず息づいていくのだと思います。
お話しの面白い方だと思いました。
全く知らない方でしたので、YouTubeの動画を何本か拝見しました。
お話しの仕方が上手で、お話しの面白い方だと思いました。
(1)既成宗教への批判については「既成宗教」と呼ばれるモノへの思想的な批判というよりも、短絡的な口先だけの救いの言葉を、あたかも宗教上の教えであるかのように言う宗教人がいるということへの問題提起かと思いました。
ただこれば、たとえば仏教の思想的な問題点を指摘されているのではなく、適当なことをさも仏の教えの裏付けがあるかのようにしゃべるお坊さんがいますねということだと思います。
手短な言い方をすれば「そういう人もいますね」というだけのことで、執行氏がいわれる絶対負という概念が、仏教をなにがしかの点で凌駕している、あるいは既成教団の示している教義よりもなにがしかの点でより深く洞察していると主張する根拠とはならないように思いました。
(2)執行氏の指摘は部分的には正しいところもあるように思えました。おそらく、執行氏のお話しから得られる教訓としては、「坊さんの格好をしてるというだけで、その話を鵜呑みにするのではなく、自分もしっかり勉強して、自分で考えてみましょう」ということかと思います。
蛇足ながら、執行氏が思想家ではなく実業家になられたのは菌類が氏の絶対負の思想を具現化している存在だったからというくだりをうかがって、小松左京の「人類裁判」という短編を思い出しました。
宇宙に進出した人類が自分勝手な理屈で他世界の生命を殺傷して、宇宙生命連合体に裁判にかけられるというお話しです。裁判では過去に人類から迫害された地球上の生命が次々に証言に立って、いかに人類が身勝手に他の生命を蔑ろにしてきたか、という犯罪の悪質性が暴露されます。
しかし、最後に証言に立った地下世界の嫌気性バクテリアだけが人類のために情状酌量を求める意見を述べます。地球上で最も他を傷つけることのなかった生命からの弁護に、裁判官たちは感銘をうけ、人類にもう一度だけやり直しのチャンスが与えられるが‥‥というお話しです。
なるほど、生命は姿形や大小に関係なく尊い働きをするという、似通ったエピソードだなと思いました。
質問者からのお礼
邦元様 ありがとうございました。
古川玄峰様 ご回答ありがとうございます。「ただ一歩を歩む仏教」というお言葉に感銘を受けました。禅寺で「今ここ」での振る舞いが何よりも大事だということを学びました。しかしながら、それでは私の悩みは完全には晴れませんでした。煩悩熾盛の私から見ると「今ここを大事にすればそれで万事解決なのだろうか?」という疑問がずっと澱のように心に残っており、それが執行氏の話により氷解いたしました。失礼ですが、今の私から見ると、古川様のご回答も現実から乖離した「きれいごと」のように思えてなりません。申し訳ございません。
百目鬼洋一様 ご回答ありがとうございます。執行氏は「仏教の『空』は生死に執着しないものだが、『絶対負』は死に執着するものだ」と言っていたように記憶しています。恐らく、仏教を凌駕しているといったものではなく、理論よりも人間の現実の働きをより重視したもので、キリスト教と仏教が異なるように、根本的に目指す方向が「違う」ものなのだと思います。(但し、科学的に納得のいく説明をされています。)