「嫌なこと(感情)は受け流す」練習をしています。 具体的な練習法は下記です。 ・瞑想 ・今やることに集中する ・好きなことに没頭する ・「相手は相手、私は私」と自己暗示する しかし、ふと何もない時間があると夫や兄弟の自分勝手な行動に振り回されたことを思い出しては心の中でぶん殴っている自分がいます。 午前中~昼過ぎまでせっかくの1人時間が持てるのに、非常にもったいないです。 上記の練習法を繰り返していますが最近心がスッキリしないです。 どうすれば心がスッキリするでしょうか? また、人に振り回されず、常にブレない自分を維持したいです。 そのためには、どのような修行が効果的でしょうか? お坊さん方が普段行っている修行法があれば教えてください。
こんにちは。 半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。 最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。 1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。 半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。 2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。 3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。 座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します。
皆様いつもご回答ありがとうございます。 この度は座禅中のことについて相談したく存じます。 私は集中力を身に付けるべくお寺の座禅の集まりに通い始めました。 昔、別のお寺に行ったことがありますが、最後に頂いたおうどんを無理やり全部食べて戻しそうになった経験から、二度と行かないと決めていました。 しかしどうしても私には座禅をする必要があると思った為、意を決して参りました。 そうするとお坊さんも参加者のお方も気さくで明るく、行って良かったなと思います。 問題はここからです。 お坊さんから良い匂いがしました。それは物理的に近くにいらしたときです。 香水でもお香でも線香でもないような、石鹸のような清潔感のある香りです。 私はそれにドキッとしてしまいました。 それ以来お坊さんに会えるのが楽しみでたまらなくなりました。 お坊さんは恐らく結婚されていると思います。私もしています。 冒涜に近い妄想や、私が躁状態になった時に抱きつかないかなど不安諸々で頭がいっぱいです。(お坊さんには精神疾患があると既に伝えました) 特に心配なのが幼児退行です。 「○○がね~、××したのー」と甘えた言葉遣いから始まり「△△さんに何でもやってもらうの!」←相手が夫なら問題ありませんが、少しでも頼れる人と思えば甘えまくりで恥ずかしいことこの上ないです。 仏様に申し訳なくお坊さんに申し訳なく夫に申し訳なく、何よりも集中力どころか雑念を背負って帰ってくるので本末転倒・逆効果です。 質問なのですが、お坊さんは、衣類に何か付ける決まりになっているのですか? 私は何をどうしたら良いでしょうか?自分が情けないです。
昔から瞑想をしていたのですが、井上貫道さんの「げんにび」を読んでから坐禅に興味を持つようになりました 事情で障害年金で生活しており、田舎で車もないため、指導者を探すのは難しそうです どうしたらいいでしょうか?
度々質問させて頂いてるものです。いつもご説法ありがとうございます。 私の人生目標は優しくなりたいなのですが、 ちかくのお寺のお坊さんにご相談させていただいたところ優しくなるためにはとにかく座禅をしてくれとご説法いただきました。 そこで質問なのですが、とにかく暇な時間に座禅をするのと、恋愛を通して人生経験をして、子育てをしてなお座禅をするのではどちらが優しくなれると思いますか? ご説法お願いします
自宅で座禅をしているのですが、結跏趺坐をすると15分~20分で左足がしびれ始め30分を過ぎるころには完全に足先の感覚がなくなってしまいます。 40分ぐらいまではなんとか我慢できるのですが、終わったあとはしばらく体育座りや膝立ちの状態で足先に体重をかけて痺れを取らないと、とても歩ける状態ではありません。 そのほかの痛みは特になく、強いて気になるところがあるとすれば、両足のスネが交差する所がどうしても当たってしまって赤くなり、やや痛む程度です。 体形は普通で、脚全体に肉がついているというようなこともないです。 自分なりの工夫としては、股関節を柔らかくしたほうがよいかと思い、真向法の体操などを行っていますが、始めたばかりなので効果はまだ自覚できていません。 普段から座禅をされているお坊さんは、何か足が痺れないコツや工夫があるのでしょうか? 教えていただけると嬉しいです。
鈴木俊隆師の「禅マインドビギナーズ・マインド」を読みました。その中に、「自分自身を完全にもやし尽くすのです。... 禅とは、常に完全に燃やしつくして、灰しか残らないことをいいます。」 これは、「只管打坐」ということでしょうか。それとも、他にこの意味合いの語句がありますか。教えていただけたら大変嬉しいです。
法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。
こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
自分は最近自宅で坐禅をしています。 自分は最初曹洞宗のお寺様での坐禅をさせていただいて作法などを教えて頂きました。 そのお寺のご住職様が自宅でも坐禅を少しの時間でも良いからやってみなさいと言われました。 そこで最近家で坐禅しているのですがいつも雑念が湧いてしまいます。 お寺様では警策を打って頂けますが自宅ではたとえ雑念などが出てきても警策は頂けません。 そしてお寺様になかなか行けないため自宅での坐禅に励まざるを得ません。 そこで質問なのですがどうやったら自宅で坐禅をするとき雑念を抑えることが出来ますか?またお寺様にある坐蒲が自宅にはありませんどうやって代用すれば良いですか? かなり読みずらい文章ですいません。 ご回答よろしくお願いします。
昔、坐禅が坐禅するということを聞いたのですが、よく分かりません。 検索をしても出てこないので、詳しいお方ご教示ください。
家で坐禅をしようと、曹洞宗のお坊さんのYouTubeの動画を見て作法を学びました。 そして、足を組んでみるとどう頑張っても綺麗に動画のように組むことができません。無理やりやると骨が折れるのではないかという程の激痛が走ります。 もし、きちんと足を組めない場合 このような座り方でもいいと言うのはありますでしょうか? また、椅子に座ってもいいのでしょうか? 分かりづらい文章ですみませんが、ご回答頂けると幸いです。m(*_ _)m
禅について。 座禅をしてると、この世と一体となった感覚というか、諸行無常が感じられる瞬間があると聞きますが、それは本当ですか?体感しましたか? 私は、虐待という辛い人生経験をして、きっと自分が辛いのは前世で悪いことしたんだなと気づきました。 仏教の初歩ではありますが、因縁自覚したという感覚があり、仏教の輪廻転生や諸行無常を信じてますし、感じてます。 座禅をすると、それ以上のことを感じられたりするのでしょうか? それとも、因縁自覚があれば、座禅してもそれが深まるだけなのでしょうか? というのも、私は読経や写経や掃除などはしますが、座禅が苦手で、一番続いたものでも20分くらいしありません。 このまま座禅を続けていて、その先に今までの価値観が変貌するようなものかあるか気になったからです。 どうか教えてください。
こんにちは。現在、求道中の者です。 僕は現在「座禅」を実践しています。とりあえず朝と寝る前に20~30分くらい行っています。 座禅を実践していると、どうしても緊張(力み)してしまうのですがおかしいですか?座禅が終わった時には汗が出ています。呼吸も浅い気がし、何より苦痛です。 座禅は、井上貫道先生のやり方で行っています。本当は参禅に行きたいのですが、距離的にも金銭的にも時間的にも無理なので、とても困っています。 座禅する上でのコツを教えていただきたいです。
hasunohaの僧侶の皆様方、こちらで幾度か質問させていただいておりまするると申します。 プロフィールに記載しておりますように、私はうつ病再発予防のために現在も服薬を続けております。 治療を続ける中で自分の心の問題を薬に頼り切りにせず、自身で調和が保てるようになりたいと思い坐禅を始めました。 坐禅の習慣を続けていくにつれて以前より確実にパニックや不安に陥る頻度が減り、日々を落ち着いて過ごせるようになりました。 また坐禅をしている際に、自らの内に湧いた雑念を冷静に見つめてその雑念から離れる瞬間を幾度か体験し、とても安らかな気持ちになれました。 そして、道元禅師の「ただ坐禅に打ち込む姿にこそ仏がある」という教えを、ほんの片鱗ですが理解できるようになりました。 ただ私は過去の質問で相談いたしましたが、何があっても我が身を救ってくださる阿弥陀様の教えも信条の根っこに抱いており、阿弥陀様の優しさが好きです。 坐禅をする者を阿弥陀様はどう見ていらっしゃるんでしょうか。 逆に、阿弥陀様を信じる者が坐禅をして悟れるのでしょうか。
母親が亡くなってもうすぐ1年になります。 未だに毎日のように母の事を思い出して辛いです。 母親とはずっと前から関係がよくありませんでした。 なので良いことばかりではなく 嫌だったこと、辛かったことを思い出したかと思えば、母も生きづらく辛かったろう寂しかったろうと後悔の念が巡って涙が流れたりと、ずっと複雑な気持ちで考えが堂々巡りして頭がおかしくなりそうです。 よく、忘れる必要はないとか、思い出すことが供養とかと言われますが、思い出さないといけませんか? 思い出したくないのです。 宗教には詳しくないのですが、うちは禅宗という宗派です。 禅宗とは座禅を主にする。という宗派? のようなのですが、 座禅=心を無にする=座禅の間は亡くなった人の事への思いを無にしてしまうことが供養になりますか? 思い出してしまいそうになったら心を無にしても良いですか?
今日坐禅をしていたら体が消えていくような感覚がありました。 これはどういうことでしょう?