際とは何ですか?回答受付中
坐禅を始めて少し経ちますが、何かの本で、「坐禅をしていくと心の動きというものの際が、キチッとする。」とありました。際とは何ですか?そして際がキチッとするのがどのようにわかるのですか?よろしくお願いします。
お坊さんからの回答 2件
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坐禅が教えてくれる変化
ご質問ありがとうございます。
とても大切なところに目を向けておられると感じました。
ご質問にある「心の動きの際(きわ)」とは、心が何かに反応して動き出す「境目」のことを指していると思われます。
怒りや不安、悲しみなどの感情は、いきなり完成した形で現れるように感じますが、実際にはその手前に、言葉にならない違和感や、身体の緊張、かすかな引っかかりがあります。その「動き出す直前」「巻き込まれる一歩手前」が、いわゆる「際」なのかなと思います。
坐禅を続けていくと、この「際」が少しずつはっきりしてきます。
以前は気づいた時にはもう感情の中にどっぷり入っていたのが、「あ、今怒りが立ち上がりそうだな」「不安に傾きかけているな」と、早い段階で気づけるようになります。
これが「際がキチッとする」という感覚だと思います。
大切なのは、心が動かなくなることではありません。坐禅をしても、思考や感情は相変わらず湧いてきます。ただ、それに巻き込まれる前に「動いたことそのもの」を見られるようになる。心と反応の間に、ほんのわずかな“間”が生まれるのです。その間があることで、すぐに反応せず、眺めたり、選び直したりできるようになります。
また、「際が見える」ようになると、良し悪しで判断する気持ちも和らいできます。「こんなことを考えてはいけない」ではなく、「今、こういう考えが出てきたな」と、事実として受け止められるようになります。これは坐禅が深まってきた一つの目安でしょう。
坐禅の実りは、特別な体験や心境を得ることではなく、日常の中で心の動きに気づけるようになることです。心の動きの際に気づける時間が少しずつ増えていくこと自体が、坐禅の大切な歩みなのだと思います。焦らず、比べず、今起きていることを静かに確かめていかれてください。
劇的BEFORE AFTER!目指せ❝ムサイ(無際)❞大師
坐禅して、自分が自分の内なる働きに目が向くよう(坐禅=静慮)になると、
自分が自分自身の身心スクリーン📺ディスプレイに目が向かうようになるわけですよ。
ですから、人がテレビの画面、スクリーンを見ている時、テレビの映像の移り変わり、画面の変化、移り変わりが分かる「のと同じように」、際がハッキリする。
自分の様子がよくわかるようになる。手に取るようにわかる。自分に安心がつく、決着がつく。思い、イメージ、一念の浮き沈み、現れ、消えゆく様子がわかるということです。それが静慮=坐禅ビジョンです。座ることではなく坐=何もしない、いるままに、そのままに。
自分が何を掴んでいるか、何を取り扱っているのか。
思考の世界と、事実の世界との際、左脳マインドと右脳マインドの視点もハッキリするわけのです。思考メインか事実ファーストであるか。
思考と事実との際がハッキリ「しさえ」すれば、自分が思いの世界に生きている時ありもしない現実と向き合って一喜一憂している姿と、事実の世界に安住している安楽な時の様子との違いもよくわかる。
無際とは人間の価値観、相対観念を超える。
事実だけの世界には苦しみも迷いもありません。事実だけですから。
人は事実の世界にいきていながら、そこに思考のトッピングをしているわけです。
そこを坐禅を通してよく見つめていけば、その際(さい)そこの際(きわ)にも気づけることでしょう。
事実に住する時=非思量に住する時、そこに「際」はありません。
事実には想念が伴われず、自分とか他とかの認知、概念の際すらありません。
石頭希遷大和尚という方は仏祖と言われる方の一人です。
坐禅で悟りを開かれ、人間世界のあらゆるキワを絶して大安楽を得られ多くの人を救われたので国から無際大師と諡されました。
水と陸の際 水際も風呂の時は気にならず
重大な局面 瀬戸際も過ぎれば忘れてる
閑職に追いやられた窓際族も日当たり良好
往生際の悪さは見境ありません
死に際 最期の時も いくら考えても死ぬまで死は来ない
過ぎればもう意識不明
仏は真如実際を生きる人
国際といっても 国籍の違いはあっても挨拶する時 際はありません
笑顔も美味しいもうれしいも眠いも国境という境目 際を超えている
良い事 良いもの 良い働きは人と人の際を超えてよい働きをしています
救いの働きはあらゆる壁を超えていく✨



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