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座禅に関しての悩み回答受付中

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こんにちは。
半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。
最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。

1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。
半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。

2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。

3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。

座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。
よろしくお願い致します。

2025年4月20日 16:03

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご自身の心と体が「心地よい」と感じる時間や方法を大切に

拝読いたしました。
半年もの間、毎日朝晩40分ずつ坐禅を続けていらっしゃるとのこと、大変素晴らしいですね。その継続力にまず敬意を表します。一般的なお寺のお坊さんでも、そこまで毎日坐禅されている方は少ないのではないでしょうか。本当にすごいことです。

さて、お悩みについてですが、坐禅は本来、心身ともにリラックスした状態で行うものです。決して苦行ではありません。その点をまず心に留めておいていただければと思います。

1. 時間を気にしてしまう点について
これは、坐禅そのものに集中できていない、あるいは足の痛みなど無理をしているサインかもしれません。坐禅は体調や環境によって集中できない日もあります。時間を気にしてしまう時は、「今は集中できていないな」と受け止め、無理に気負わないことです。

2. 足や肩の痛み、我慢について
痛みがあるのであれば、我慢してはいけません。我慢しても慣れるものではありませんし、坐禅は苦行ではないからです。
足が痛い場合は、無理せず足を組み替えたり、一度立ち上がってゆっくり歩く「経行(きんひん)」を取り入れたりするのも良いでしょう。イス坐禅に切り替えるなどの工夫もできます。
肩の痛みは、姿勢が崩れている可能性が高いです。坐禅会などで和尚さんに姿勢を見てもらい、正しい姿勢を教えてもらうことをお勧めします。大切なのは「我慢」ではなく「工夫」です。

3. 「修行」と捉えると辛くなる点について
「修行」と考え、坐禅の先に何か特別な目的(悟りや精神統一など)を求めてしまうと、坐禅がそのための「手段」となり、辛さを感じやすくなるのかもしれません。
坐禅の先に何かを求めるのではなく、ただ坐る。ですから、「趣味」として坐禅を楽しんでいた時の感覚の方が、むしろ坐禅の本来のあり方に近いのかもしれません。
リラックスして、「坐禅を楽しむ」というくらいの気持ちで続けてみてはいかがでしょうか。

毎日40分という時間に縛られず、ご自身の心と体が「心地よい」と感じる時間や方法を大切にしてください。無理なく、リラックスして続けていく中で、坐禅が歯磨きのように自然な習慣となった時、その本来の輝きを感じられるのではないかと思います。

私もまだまだ未熟者です。焦らず、ご自身のペースで、共に坐禅道を歩んでまいりましょう。

2025年4月21日 22:22
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個別相談可能
蓮城院というお寺の副住職。 主に坐禅をしたり、庭掃除をしたり。 ハスや野菜を育てたり。最近はAIマンガにチャレンジしています。 ちなみに蓮城院は二宮金次郎(尊徳)のお墓があるお寺。 また、毎月第1月曜日、第1土曜日に坐禅会を開催しております。 ■X(旧Twitter)アカウント■ https://x.com/koubun_osho
対応できる時間帯は、18時から20時。 自動車開発エンジニアの経験がある。 元サラリーマンの僧侶です。 会社内の人間関係のご相談引き受けます。

安楽の法門

こんにちは。

 現在曹洞宗では、「椅子坐禅」も勧めています。椅子坐禅とは、椅子に坐る坐禅です。
 https://www.sotozen-net.or.jp/isuzazen
 (曹洞禅ネット 椅子坐禅のきほん)
 坐禅の基本のひとつに、「調身・調息・調心」(姿勢を調え、呼吸を調え、心を調える)という言葉があります。「調身」は、姿勢良く坐ることでありますが、曹洞宗では椅子坐禅も勧めておりますし、痛いのを我慢してまで足を組む必要はないと思います。大切なのは足の組み方ではなく姿勢の方だと思います。
 曹洞宗の開祖道元禅師は、「坐禅とは悟りを得るための難行苦行ではなく、安楽の行であり、安楽の法門である」とおっしゃっています。
 このあたりを承知していれば、おのずと時間を気にすることはなくなっていくのではないでしょうか。

 曹洞宗東海管区のホームページに、参禅のとらえかたについてわかりやすい解説がありましたので参考にしてください。
 https://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=25&bl=0
 (曹洞宗 東海管区教化センター 道元さまのお言葉 普勧坐禅儀より)
 

2025年4月21日 11:04
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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

足で座るのではなく、法に坐する。事実に坐する。

当山は毎週日曜に坐禅会を開いております。
私自身も坐禅嫌いだったのですが、坐禅を通して仏法、法が明らかになりました。ぜひ正しい方法で臨んでください。以下、ご質問への回答です。
1
「気にする」その主人公意識を黙らせる。
私意識が主体で坐禅をすると、私という脳内番組内の司会者・コメンテーターが黙らない。脳内活動をメインとするのであなく、体感されることがメインになるように事実に花を持たせるつもりで処することです。
気にしないようにしようと課していること自体がすでに心の中、インナーの活動です。坐禅は非思量なので、外の事象、触れている事、仏の❝かた❞より行われるように処することです。
出てくる思いも自然に発生してくる生物の自然な反応なのだ、と見極めること。雑念・煩悩というラベルで区分けすること自体がそもそも間違いなのです。出てくる思いそれ自体に雑念も煩悩もありません。よって出た思いそのものにリアクションをしないことです。思いはかまってちゃんだと思いましょう。構うから思いの働き、心理的なアクションが増幅する。
足の痺れはすぐに組みなおせば良いだけです。坐禅は座禅ではありません。足で坐ることではなく、居るまま、そのまま、なすことのない様子を坐といいます。禅僧でもみんな坐禅を「座」禅と誤解していますが、足で座る事を忘れてください。私自身も結跏趺坐も半跏趺坐も面壁も対座も捨てて、ルールに縛られなくなった時、はじめて坐禅になりました。ルールに縛られている意識が強いということは人の活動です。修行道場では常に監視されていますからとても坐禅になりませんでしたが、古参になってルールから縛られなくなったときにはじめて坐禅になりました。

2
50分は長いと思います。
当山では2,30分ぐらいです。やることが明確でないと人は退屈になりますよね。長く座れることが坐禅なのではなく、心が事実に処して人の見解をはなれた法の様子に安住することを坐る、禅定、坐するというのです。

3.
菩提心、求道心がないと、オレの為の坐禅、自分のための邪禅になってしまう。
事実には元々理屈はなく、不要です。ものを見る、音を聞くのに、修行とか修行でないということがありましょうか?今そこで坐するのに練習とか本番なんてものがありましょうか。あるとすればそれは自分が立てるもの。人の見解、意味づけを離れた世界に坐することです。

2025年4月23日 15:53
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答有難うございます。
自分の中で凝り固まっていた座禅とはこうあるべきという理想やイメージを払拭する事ができました。
これから無理せず我慢せずゆっくりと気楽に座禅をやっていこうと思います。
この度はありがとうございました。

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