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座禅で足が痺れてしまいます

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自宅で座禅をしているのですが、結跏趺坐をすると15分~20分で左足がしびれ始め30分を過ぎるころには完全に足先の感覚がなくなってしまいます。

40分ぐらいまではなんとか我慢できるのですが、終わったあとはしばらく体育座りや膝立ちの状態で足先に体重をかけて痺れを取らないと、とても歩ける状態ではありません。

そのほかの痛みは特になく、強いて気になるところがあるとすれば、両足のスネが交差する所がどうしても当たってしまって赤くなり、やや痛む程度です。
体形は普通で、脚全体に肉がついているというようなこともないです。

自分なりの工夫としては、股関節を柔らかくしたほうがよいかと思い、真向法の体操などを行っていますが、始めたばかりなので効果はまだ自覚できていません。

普段から座禅をされているお坊さんは、何か足が痺れないコツや工夫があるのでしょうか?
教えていただけると嬉しいです。

2022年8月31日 1:22

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

足がしびれるのは当然

👦「老師、足が痛くて座れませんっ。結跏趺坐、半跏も無理です。」
👴「お前は坐禅を足で座るものだと思っている。座るんじゃない。坐ぢゃ。世間の9割が勘違いしておるがザゼンのザとは「坐」ぢゃ!坐とは禅、禅定のことぢゃ。足で座る座ではない!」
👦「え?座るんじゃないのですか?」
👴「こころが禅定になることを坐という。坐禅とは下の禅の字が上の坐を補う中国の言語であって日本人は坐禅を座だと思いこんでいる。坐禅はどこでやるのぢゃ?」
👦「…坐禅堂でしょうか?」
👴「そうではない。お前の体のどこでやるのか?足でするのか?足が無い人間は坐禅にならんのか?坐禅は足ではなく心でするものぢゃ!」
私も僧堂生活10年の中で結跏趺坐は長続きしませんでした。むしろ足も崩して面壁もせずに坐っていた時にはじめて坐禅に❝なり❞ました。
坐禅に「なる」とは坐して、思考を離れた非思量に到ること。考えの活動ではないところに意識を向けていくことで考え・見解を離れた人間本来の静寂性・自由性・成仏性を全うすることです。
足を組める人も体系に恵まれた人で組めない人の辛さとかわからないのですよね。
坐禅は座禅ではなく坐禅。禅定です。禅僧ですら坐禅を座と勘違いしている人も仏っちゃけ多い。曹洞宗の某有名僧侶も只管打坐をJUST SITTINGと誤訳して海外で布教していたそうです。(トンデモナイ)1ミリでもズレればおかしな方に向かいます。スマナサーラ師も只管打坐をJUST BEINGと訳していますが、それも説明不足かと。只管打坐や結跏趺坐の着眼点が表面だけで内容が無いからです。
所詮、言語は説明。法の上には座も坐もなく面壁も表裏は虚空に無い。
表面的な作法に縛られてしまうと人の作ったルールにとどまって仏法に到らない。
事故などで足を失った人であっても坐禅にならないということはありません。
これは足の組み方に固執しなくていいですよ、という励ましのお話です。
座る形や足の痛みが気になるならそれを崩してよいのです。
坐臥に関わらず一切の能動意識を打ち捨てて事実任せ、感受任せで過ごしていますと人は脳の優先順位が自分の考えることから事実ファーストになります。さらには我が鎮まり、初めに言葉・思考ありきの脳から、初めに事実・そのことあり。
するとあらゆる受け止めに思考の伴いの無いことを悟り法蔵おのずから開いて受用如意なり。

2022年9月1日 9:51
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丹下 覚元(たんげ かくげん)
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質問者からのお礼

丹下 覚元様

ご返信いただき、ありがとうございます。

和尚さんのお話を読んで、体のつくりは人それぞれなのだから痺れる人は痺れるものだし
結跏趺坐はある種の方便であって、そこにこだわる意味はないということが、よく分かりました。

喉の渇きを癒すためにコカコーラでも飲もうかとコンビニに入って
それが売っていないなら隣のペプシコーラでもいいじゃないかということですね。
戒めにしたいと思います。

ただ、私は例えていうならば釣り未経験で釣り堀に来た状態なのです。
右も左もわからないけれど釣り竿を垂らしてみたい。
使い方がよくわからないので教えてほしいということなのです。

そこで隣に座っていたその道何十年のプロの方が
「魚を釣るのに別にその釣り竿にこだわる必要はないんですよ。
この釣り堀の店主は慈悲深い人ですから、網で取ろうと筅で取ろうと手で掴もうと怒られませんよ。
なんならダイナマイト漁をしたって許してくれるでしょうから自由にやってみなさい。」
とおっしゃるのであれば、なるほどそういうものかと思うのです。

しかし、私は釣り竿で釣りをしたことがないのでまずは楽しんでみたいのです。
釣り竿で魚を釣るために苦心した・工夫したその経験をお聞きしたいのです。
結果的にそのプロの方が魚を釣るなら網でもいいということになったとしても、
「どうしても釣り竿を使いたいというのならこうやれば上手くいくかもしれないよ」というお話が聞きたいのです。

和尚さんが10年の修行をされた中でできるだけ痺れないように工夫して
少しでも効果があったことを教えていただけると、とてもありがたいです。

また、ほかの和尚さんにも何か工夫がありましたら教えていただければ、大変ありがたいです。

よろしくお願いいたします。

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アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

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