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父に会いたい

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こんにちは。私は大学生です。
去年の12月に、父が癌で亡くなりました。40歳代でした。
父は癌と宣告されても、抗がん剤治療を受けながら大好きな仕事をこなしていました。仕事のない日は家族でよく遊びにいきました。
私はそんな父がとても大好きでした。2人で街に出かけることも多々ありました。それぐらい父と仲良しでした。

父は治療をしていても、まさか自分が死ぬとはおもっていなかったらしく、おせちの予約までしていました。今度温泉に行こうと話をしていました。そんな父は私に何も言わずに、突然昏睡状態になり、そのまま目を覚ますことはありませんでした。

もう父が亡くなって1ヶ月以上経ちました。四十九日も終えました。
しかし私は、父がいないということがいまいち実感できません。
父の最期は見ました。だから、頭の半分ぐらいは父がいないということも分かってるつもりです。でも、残り半分ぐらいはやっぱりまだいるような気がするのです。
こうやってウロウロ考えてるうちに、辛くて辛くて、涙が止まりません。おかしなタイミングで涙が出ます。父に会いたい、話したいという気持ちで胸がいっぱいになります。
大学が忙しく、やることがたくさんあるのに朝も起きれず、勉強も集中できません。

でも、父はきっと、こんな私の姿を望んでいないと思います。泣いた後は、前に進まなきゃ頑張らなきゃ、と思っています。
でも思うばかりで、実際は何もできていません。私は今、こんな自分が大嫌いです。

父に会いたいです。私はいつか父に会えますか?

下手な文章ですみません。心の整理もかねて、思っていることを投稿させていまだきました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたは「会う・逢う」ことを学ぶと良いです

リアルで会っている人を見てください。
その時あなたがお父さんの事を考えていたりラインをしていればおそらくその人はあっていながらあっていません。ずっと会っていない人は死んでしまっていることと同じことです。
あなたは「会う」・「逢う」ということを極めるとよろしい。
本当に「遇う」という事がどういうことなのか知らない内からお父さんに会いたいと言っても会えんでしょう。
人と人とは逢うことができる。
ヒントを授けましょう。
「まつり」という言葉がある。
仏をたてまつる祀り
どんちゃん騒ぎのお祭り
ひな祭りなどのお祭り
政治家のまつりごと(政)
奉仕活動・お仕事の奉り。
「まつり」に共通することがあります。
それは何でしょう。感じ取ってください。いつか生きながら亡きお父さんに会うことができますよ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
すごく考えさせられました。あうとはどういうことなのか、すぐには分かりそうもありませんが、これから少しずつ考えてみたいと思います。本当にありがとうございました。

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