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おばあちゃんとおかあさんとわたし

回答数回答 1
有り難し有り難し 3

おかあさんは

ずっとずっとずーっと

「わたしもあんなふうになりたい」

といってきた

なぜなら

おかあさんのおかあさんのおばあちゃんが

わがままほうだい

いいたいほうだい

すきほうだい

かってきままにいきているようにみえていたからで

でもその

「わたしもあんなふうになりたい」

とおもっていたおかあさんのおかあさんのおばあちゃんが

いっきにぼけて

いじわるになって

がんこになって

びょうきになって

たおれて

きゅうきゅうしゃではこばれて

にゅういんして

いえにもかえれなくなって

ゆいいつのたのしみだった

しょくじもろくにとれなくなって

といれにもいけなくなって

おむつになって

・・・

そうしたら

さいきん

「わたしはあんなふうになりたくない」

というようになった

あんなに

おかあさんのおかあさんにあこがれて

うらやましくて

うらやましくて

「わたしもあんなふうになりたい」

そういっていたのに

さいきん

ずっとずっとずーっと

「わたしはあんなふうになりたくない」

そういっている

わたしのだーいすきなおばあちゃん

こどもがえりしたおばあちゃん

かわいいおばあちゃん

おかあさんのおかあさんのおばあちゃんは

おかあさんのあこがれであり

おかあさんのもくひょうであり

ついくらべてしまうあいてであり

もっともおおきなそんざいなんだな

そんなことを

「わたしはあんなふうになりたくない」

という

さいきんのおかあさんのくちぐせから

おもうようになった

わたしはまだわかい

おかあさんよりわかいし

おばあちゃんよりわかい

これから

おかあさんのとしになっていき

おばあちゃんのとしになっていく

そのとき

わたしはどうおもうのだろうか?

「わたしもあんなふうになりたい」

「わたしはあんなふうになりたくない」

いまのわたしには

まだまだわからないけれど

きっと

どちらのきもちもけいけんするのだろう

それが

いきていくということであり

おいていということであり

だれにもとめられない

ときのながれというものなんだろう

そんなことを

おかあさんと

おかあさんのおかあさんのおばあちゃんから

わたしはいま

おしえてもらっている

これがしぜんというもの?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

我がこととして

拝読させて頂きました。

あなたがお感じになるそのことは人間の本質というか本性なのですね。

飾ることもなくありのままの自然な姿ですね。

人をそう見るのも良いも悪いもなくありのままなのです。

私達は生まれたそこから既に老いていきます。成長過程もありますが止まることなく細胞は劣化していきます。様々な生きものから生命を頂きながら交換してエネルギーを得ていきながらも老いていきますし、病にもなっていきます。

そうしていく中で改めて自分がどのように生きていくことが望ましいのか、何を目指して何を目的として生きていくことが、「自分」には必要なことなのかを合間合間に見つめ直し、必要ならば軌道修正していくことが重要かと思います。

私達は最後には自分の肉体も財産も全て置いていかねばなりません、その時に何が本当に大切なことかを身を以て突き付けられます。どうしようもない変えることのできない現実に向き合わななければなりません。そのことを今全て想定することは甚だ難しいとは思いますが、いつ如何なる時もその現実は見えないながらも存在しています。

我がこととして、人にふり見て我がふり直せですね。

あなた自身改めて周りの方々の考えや行いを見つめてこれからどのように生き抜いていくことが「自分」にとって大事かを見つめて頂き、これからしっかりと己の信じる道を歩んでいいって下さいね。

あなたを心から応援したいと思っています。

再度拝読させて頂きました。
先ずお祖母様の手術が無事に成功なさり回復なさって頂きます様にと心から神仏やあなたのご先祖様方にお祈りさせて頂きますね。あなたもどうかお祖母様の無事を心を込めてお祈りなさって下さいね。あなたのその思いは必ずお祖母様に届きますからね。

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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

Kousyo Kuuyo Azuma様、お返事ありがとうございます。

感じたことを感じたままに、思ったことを思ったままに書きました。

私の母は、すぐに他人と自分を比べて、どっちが良いとか悪いとか、とにかく、下を見ず上ばかり見ている「隣の芝生は青い」派です。

私のおばあちゃんは、「隣の芝生は青い」ではなく「私の芝生は青い」派でした。

いろんなものを失っていっているのに、自分に残っているものに感謝して生きていました。

少なくとも、急に病が進むまでは。

昨日、おばあちゃんを普段みている母の妹から電話があり、入院先の病院で、ベッドから落ちたのかで大腿骨骨折し、手術をするかどうか迷って電話してきたようです。

手術するには、心臓が弱り過ぎている、でも、手術しないと痛みに耐えながら生きることになる、どうしますか?と医師から言われたそうです。

泣きながら妹から電話がかかってきたのに、すぐに行ける訳じゃない、本当に必要な時に行くのだから、来てと言われる度に行ける訳じゃない、私には私がやらなければならないことがいっぱいあるんだ、等々…

私が「今がそのときなんじゃないの?」と言っても、「すぐに手術できる訳じゃないんだからね!私は手術する時に行かないといけないんだから!」と怒るばかり。

でも、母の予想に反して、急遽、今朝手術することが決まって、「もう!こんなときに!」と、今の10連休中での手術に文句言いながらも、やはり、妹だけの状況で、死ぬかも知れない手術を受けさせる訳にはいかないのか、私に「新幹線の切符とって!指定席で!」と言い、指定席が全然見つからない今になって、無理難題の嵐をおこしながら、慌てて帰省していきました。

昨日、飛んでいかないといけなかったのに、いかなかった。

それは、単なるワガママではなく、現実を受け入れられない、受け入れたくない、まだ大丈夫…いろんな想いが母を頭の中をぐるぐる渦巻いていたのかなと思います。

なるようになる、のではなく、ならぬようになる、そう今の母はそう思っているかも知れません。

でも、母は私より長く生きています、きっと、わかっていないのではなく、ただ厳しい現実を受け入れられなかっただけ、信じたくなかっただけなんだと思います。

だから、昨日は、外食したり買い物したり、好きなテレビをみたり、まるで今自分のお母さんのことを忘れているかのように過ごしていたのだと思います。

私は、ただここにいただけですが。

だいたいわかっています、きっと、私はお葬式にも(いつも通り)出られない。

「何かあったら、これ(喪服等)をパパに持って来させて!」と言って、行ってしまいました。

今頃、手術中だと思います。

いろんな想いが、私にも、そして母にも、また麻酔中のおばあちゃんにも、駆け巡っている…はずです。

でも、こればかりは、誰にもどうにもなりません。

なるようになる。

自然のままに、あるがままに、なるようになる。

誰も、誰かを責めることは出来ないのです。

こればかりは…

この流ればかりは誰にも止められない…

おばあちゃんは、きっといろんなことを、命をもって、私たちに教えてくれているのです。

私は、祈ることしか今は出来ません。

またおばあちゃんに会えることを願いながら。

一瞬、一瞬が、尊いです。

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