何故母に期待してしまうのか
私には私が13の時に統合失調症になった兄弟がいます。
当時父は単身赴任、母はかねてから通っていた宗教団体に兄弟の相談をしました。その宗教では家族全員が宗教を信じれば病気は治ると言われたため、信じていない私は何度か責められました。
約5年経ち宗教団体が内部割れをし、母も団体から離れて病院に通わせるのが一番だと気がつきました。
その後は病人の兄弟をかわいそうに思うのか、暴力に怯えているのか、ことあるごとに私を下げて統合失調症の兄弟を持ち上げたり、兄弟の肩ばかりもちます。
父でさえ「媚びている」ようだと言っていたので、不平等な態度なのは間違いないはずです。
私は統合失調症特有の理不尽な行動や、母の不公平な態度を含めて、兄弟のことは嫌いで恨んでさえいます。
私は母が母自身のことにしか興味がない人間だと知っているつもりです。
それでも尚、母に対して病気ということは関係なく自分の2人の子供を平等にみてほしい、双方の主張を平等に聞いて今は恨んでいる兄弟仲を取り持ってほしい、兄弟ばかりでなく自分のことも褒めてほしい、認めてほしいといった期待をしてしまいます。
そして期待した結果を得ようとしていつもとても子供じみた行動(母に対して兄弟のことを強く批判するようなことを言う)をとってしまいます。
その度に母は逆上し、私を非難するのですが、私はますます兄弟を恨むと共に私はいらない子だと感じ、何故か自己嫌悪に陥ってしまいます。
母にばかり期待しても仕方ないのに何故期待するのをやめられないのか?
子供じみた自分の気持ちや行動、このくだらない関係を正すにはどうすればいいのか教えてください。
お坊さんからの回答 1件
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大人になって見えてくる親の気持ちとは?
質問読ませていただきました。
親と子の関係というのは、なかなか切っても切れないものです。
恨みがあったり怒りがあったり諦めの気持ちがあったとしても、どこか子供である自分のことを親として見て欲しい・・・という気持ちがあるのでしょう。
それは決しておかしいことでも、恥ずべきことでもありません。まずは、そこを自分に言い聞かせてあげてください。
その上で、考えていただきたいことがあります。
お母さんは、統合失調症の子供に対してどんな気持ちを抱いていたでしょうか?
何が原因かは分かりませんが、子供の病気のことを自分のせいだと責めていたのではないでしょうか?
宗教を信仰すれば治ると言われて、ワラにもすがる思いで信仰していたのかもしれません。しかしそうではないと気付いて、病院で治療することが遅れてしまったことを、本当に深く深く悔いているのではないでしょうか。
そのことから、お子さんに申し訳ない気持ちでいっぱいで、何とかしてあげたいのにどうしたらいいのか分からなくなってしまっているのではないでしょうか。
もしそうであるなら悲しいことではありますが、他に気を遣る余裕はなくなってしまうでしょう。同じ子供である質問者さんへの配慮も行き届きません。
もちろん子供の立場からすると「同じ子供なんだから同じように愛しなさいよ!」という気持ちはあるでしょう。しかし、親も完璧ではありません。1つのことに集中すると周りが見えなくなることもあるでしょう。それが他の人を傷つけていたということを見失うこともあるでしょう。
それが善いか悪いかという議論になると人それぞれ意見はあるでしょうが、私は「親もその時その時を、自分の考えで自分なりに一生懸命に生きていたんだ!」と考えてしまいます。
もちろん昔からそう考えていたわけではなく、今の年齢になって子供ができて初めて芽生えた「親の気持ちに立つ」という考え方です。
もちろん今までの部分は、私の想像に過ぎません。実際のところはお母さん本人にしかわかりません。
しかし人生経験を経て、大人になった質問者さんにも、少し親の気持ちや立場が分かる部分があるのではないでしょうか?
何か少しでも参考にしていただき、「お母さんは今でも一生懸命戦い、向かい合ってるんだな」という気持ちを持ってみて下さい。
今までとは少し違う見え方をしてくるかもしれませんよ。
質問者からのお礼
回答して頂きありがとうございます。回答を頂いたことで、鬱々とした気持ちで何も進まなかった私に目指す姿が見えてきました。
まず他の質問を拝見して、他人に期待をしても仕方ない、自分を変えなくては変わらないという回答があったので今回も同様の回答になるかと思いましたが、子供としては親に期待するのも仕方ないとの回答がきて驚きました。
回答にあった母の気持ちは、理解はできても13の時から続いてきた「当事者の私」には納得し難い問題です。
一方で私も親になり、子供に対しては自分を完璧な存在としてみないで欲しいと都合の良いことを考えてしまいます。
「当事者の私」は子供を理解するための存在として、「都合の良い親としての私」は母を理解するための存在に昇華させること。それが私の目指す姿なのだと思います。