この縁、とはどういったものでしょうか?
ここ2カ月で、家族と同姓同名の方と2人、同名のかたと1人お会いしました。気味が悪いので、この縁はどういったものか教えてほしいのです。
私には両親と、兄2人、姉1人がいます。
母と姉の同姓同名の方と、旅行先ででかけた福岡で出会いました。
兄の同名の方と、東京で出会いました。
以下は余談なので、話の背景程度で無視していただいても結構です。
私は大都市の大手から地元にUターン就職しました。3年がたちましたが、
己のプライドの高さから周りになじめず、仕事もうまく行かず、本当に落ち込んでいたのが昨年7月。仕事でよく来ていた福岡に好印象があったので、思い切ってプライベートで行って、そこで出会った人達があるからこそ、今生きていられるといえるくらい感謝しております。とあるお店でお会いしてから、足しげく通うようになり、いつしか住みたいと強く思うようになりました。出会う人、出会う人が少しづつ繋がりをもっており、すごく不思議に思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そういう御縁を「何かのお告げ」とする宗教もあるでしょうが、
仏教では、単なる偶然とみます。
でもめんたいこみかんさんは、
それを何かの御縁と感じてしまうのですね。
御自身の今の境遇がそうさせるのでしょう。
人と繋がっていく御縁は本当に不思議で、
必然性すら感じてしまいます。
でも必然と感じることで感謝が生まれるのだと思います。
どうぞ、そのような感覚を大切になさってください。
昨年の3月、地域のお寺さんで東日本大震災の慰霊法要に参加しました。法要の後で地元のミュージシャンの演奏があったのですが、遊びに来ていたちびっ子たちにモテモテになってしまい、一緒に遊んでいました。お寺の周りをぐるぐる回りながらかくれんぼをしたり、虫眼鏡と枯れ木で焚き火を試みたり(試みるだけ)。
左手に自分を乗せ、右手に他者を乗せそれを1つにするのが合掌。あるいはそれが脚なら坐禅です。子供と一緒に遊んで遊んで遊びまくるのも仏道。それが仏道だから、子供と遊ぶ功徳がそのまま供養。そう思って一生懸命に遊びましたよ。
1時間くらい遊びましたかね?2時間かな?2時間もライブやらないでしょうから、やはり1時間かな?時間の感覚もなく、一生懸命に遊びました。そして、バイバイと別れました。それから気付きました。(あぁ、そう言えば名前を聞かなかったな。子供たちもお互いに「キミ」とか「あの子」で仲良く遊んでいた。大人が都合で名前を神聖視しているだけで、子供は名前なんか無くったって構いやしないんだな。考えてみればそもそも自然界に名前なんて無いんだしなぁ。)そんなものですよ。
2カ月で、ご家族と同姓同名の方2人、同名の方1人とお会いなさった…確かに凄いとは感じますが、お坊さんが断言します。何か特異な意味があるわけではありません。偶然です。こういった体験の後は霊感商法やエセ宗教に引っかかりやすくなりますのでくれぐれもご注意ください。
でも、繋がりを大切にできる生き方は素敵です。不気味がるべきことは何もありませんので、1つのノーマルな出会いとして大切になさってはいかがでしょうか。
私も来月、あの名前も知らないちびっ子たちとまた会えるといいなぁ。
質問者からのお礼
大慈 様
さっそくの回答ありがとうございます。素敵なエピソード、微笑ましく読むうちに、いつもへの字に曲げてるはずの、口元が自然に緩んでいました。ありがとうございます。
最近読んだ落語の本に、落語の本質は仏教の教えに通ずることがある。多くの人物が出てきて、どれも太郎だ次郎だなどどいうが、各々が持つ人と成りは違うし、それが自然。気づかせていただいたことを大切に、生きてゆこうと思います。
林鴬山 憶西院 超覚寺 和田隆恩 様
的確で温かみのある回答をありがとうございます。
こうやって、一つ一つの言葉を丁寧に伝えていただけたのもひとつの御縁なのかもしれません。
ふとした奇縁、偶然に戸惑うことがあるかもしれませんが、しっかり歩んでいこうかと思います。
ありがとうございます。