hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人の死を望んでしまいます

回答数回答 2
有り難し有り難し 174

これは普段人に言えないことですし、こうして公にするとそれはそれで叩かれると思ってかなり悩んだのですが、正直に書くことにします。

私は自分が恵まれていないとか社会的責任を果たしていないとか、そういう負い目を感じています。どうにかしなければと思っているのですが出来ません(努力はしているのですが、やはり人から見れば甘えなのでしょう)。

それが高じて、他人と話をしていると「お前なんか死んでしまえ」とつい思ってしまいます。もちろん本気で死を願うわけではありません。相手は優しい方です。そういう方に対して口癖のように「死ね」と考えてしまうのです。

それを言葉に出すと本当に相手が死んでしまうのではないかと思って、口にはしません。じっと黙っています。でも、つい癖で「死ね」と考えてしまうのをなんとかしたいのです。どうしたら良いのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心で想う分には自分だけ、口に出すと災いとなる

「死ね」といった罵倒が気軽に使われ過ぎている昨今、心でいくら思ってようが口に出されていないのであれば結構なことかと思います。

私も僧侶になる前はそういった言葉を多用していた頃があります、口に出していたこともあるので貴方よりタチが悪いです
では僧侶になった今絶対に無いかと言われれば正直申しますとそのようなことはありません

口に出すことはありませんが心の中で「何てこと言いやがるんだ糞野郎」と思いながら心で吐いたことは正直、あります
ある種それらというものは自分自身の中の心のストレスを和らげる薬といいましょうか、それぞれの人が持つ常備薬のようなものでもあるのかもしれません

私もそうですがこの身、この心は汚れきっています、決して綺麗とは言えません
心の中で人に悪態をつくこともあるでしょう
心の中で吐く分にはそれを聞くのも処理するのも自分だけです、自分がもやもやするだけです、誰にも迷惑はかけません

ただ自分自身がそれを苦しいと思うならば少し変えてみましょう
「死ね」と思わずにこう思いましょう

「犬のフン踏め、踏んでこけろ」
「小指ぶつけろ、爪割れろ」
「腹下せ、満員電車で腹下せ」

これくらいにしときましょう

貴方が今までおそらく積み重ねてきた性格というのはなかなか変えられません、急に何も思わなくなることは難しいと思うのでまずは優しい感じの悪態に変えて徐々に「こんなこと思っちゃ駄目だな」と自制できるようになっていけると一番いいかもしれませんね

{{count}}
有り難し
おきもち

「先生、痛ぇよぉ……」

昔観た映画の話です。
酔っぱらいがケンカの末、ガラスを叩き割り大怪我します。周りは早く止血しなければと焦るのですが、本人は怒り狂って大暴れ。「バッキャロー、てめえら、ぶっ殺すぞ!」手が付けられません。
そこに肝っ玉の町医者が現れて、有無を言わさず取り押さえます。そこで初めて彼はボロボロ涙を流し、助けを請います。「先生、痛ぇよぉ……」

「死ね」。その強力な叫びに隠された、本当の声に耳を傾けてください。
不安だ?寂しい?羨ましい?怖い?逃げ出したい?そんな言葉では当てはまらないくらい、もっともっと複雑な心が波立つのだと思います。その波紋に耐えきれないとき、人は他者への非難の言葉で自分を保とうとすることがあります。

「死ね」と考えているとき、本当は、心はどんな悲鳴をあげていますか。どんな助けを求めていますか。

微細すぎて感じるのが難しい。正面から向き合うだけの勇気がない。認めたくない。原因は色々あると思います。だから、正体不明の苛立ちや不快感を「死ね」という言葉でしか発散できないのかもしれません。けれども素のままの気持ちをすくい取ってあげなければ、心はいつまでも救われません。

「不安なんだね。知ってるよ。苦しいね。こういうとき、あなたはいつも悲しくなるよね」。
優しく耳を傾けてあげてください。うなずいてあげてください。「痛いよ」と泣いている心に気付き、抱きしめてあげられるのは自分だけなのですから。

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

おはようございます。お礼が遅れてしまったことをお詫び致します。なんと書けば良いのか分からなかったのです。この悩みを打ち明けた方がリアルで居ます。その方が最近亡くなられました。寿命が来たのかなとも思うのですが、私の悩みがその方を殺してしまったような気がしてなりません。そういうことがあったせいか、以前ほど「死ね」とは思わなくなりました。「死ね」と呪うのは私がリアルで恵まれているわけではないことが原因です。劣等感を抱いているのです。普通に生きられないこと……年収が低く妻も居らずこれからの行方も分からないという有り様なので、それと向こう正面から向き合わなければならないのかな、と思いました。最近(他の悩みでも書きましたが)町田康さんの『人生パンク道場』という本を読みました。人間は「変わる」ことが出来る生き物であること、「変わる」ことによってしか生きられないことを思い知らされたように思います。遅れて結局この程度のお礼か、と思われたら申し訳ありません。私は私なりにリアルの問題と格闘して見るつもりで居ます。非常に難しいことなのだけれど……。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
回答数回答 3

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ