生身のお坊さんにも聞けません、、
ずーっと、ずーっと、お坊さんに聞いてみたかったのですが、内容が内容なだけに反応を目の前で見るのが怖くて聞けずにいるんです。
質問は、【生身で(現実の毎日)感じる“地獄”と、自ら命を絶ったら堕ちるとされる“地獄”】どちらが辛いのでしょう?
以前、自分がどうしようもなくドン底で辛かったとき、こんなことを考えていました。今でも時々考えてみますが【辛い】と感じる“心”があるかぎりは現実の方がよりシンドク感じます。
では、【辛さ】を感じないように心を閉ざし、感覚を断ち毎日を過ごそうとすると【死んだように生きるのは死んでいるのと同じ】という考えになってしまって、【じゃあ、もぅ、(死んでも)いいよね。】となってしまいます。
亡くなった後の世界、“地獄”は本や文献、掛軸などで知るのみで信仰が違えばまた各々違った世界なのでしょうか? 実際に在るのかも今、現世に居る以上はわかり得ないですし、、。
お坊様でしたら、こんな質問を投げ掛けられたらどのように応えられますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
事実と観念
ご相談拝読しました。
>【生身で(現実の毎日)感じる“地獄”と、自ら命を絶ったら堕ちるとされる“地獄”】どちらが辛いのでしょう?
のご質問の答えは、残念ながら「比べようがない」ということだと思います。私たちには「今」しかないからです。
もしも死んだ先に地獄があってそこに赴いて辛いならば、その辛さはその時の辛さ。そしてあなたが今辛いのは間違いなく今の事実。それを比べようとするのは頭の中での考えに過ぎないもので事実ではなく、観念なのです。
観念では真に人は救われません。
>【辛さ】を感じないように心を閉ざし、感覚を断ち毎日を過ごそうとすると【死んだように生きるのは死んでいるのと同じ】という考えになってしまって、
まさにこういうことです。実際の辛さを観念だけで感じないようにしようとするのは事実をごまかしているに過ぎません。
どんなに上手くごまかそうと、見ないようにしようと、上塗りしようと、それが残っているならばずっと底の底でくすぶったままで、また何かの縁にその辛さが噴出してくるのみです。
ならば私たちが真にすべきことは真正面から事実に向き合う事です。
辛さに対し、何で私がこんな辛いめに合わなければならないのかと、その辛さを不当なものとして悩むのでなく、
この辛さこそ私の問題だと、ならばどうしてくれようかと、主体的に真正面から真に悩み向かっていく
その主体的な態度選択によってこそ、辛く苦しい人生においても同時に「これが私だ」「これが私の人生だ」という満足が感じられるのではないでしょうか。
死後や異空間としての地獄があろうとなかろうと、そこから私たちは今学び、今問われ、今導かれるならば、そういう教えは「ある」とか「ない」とかを超えて、私たちに現実としてはたらきかける作用として存在するのです。