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生身のお坊さんにも聞けません、、

回答数回答 1
有り難し有り難し 17

ずーっと、ずーっと、お坊さんに聞いてみたかったのですが、内容が内容なだけに反応を目の前で見るのが怖くて聞けずにいるんです。

質問は、【生身で(現実の毎日)感じる“地獄”と、自ら命を絶ったら堕ちるとされる“地獄”】どちらが辛いのでしょう?

以前、自分がどうしようもなくドン底で辛かったとき、こんなことを考えていました。今でも時々考えてみますが【辛い】と感じる“心”があるかぎりは現実の方がよりシンドク感じます。
では、【辛さ】を感じないように心を閉ざし、感覚を断ち毎日を過ごそうとすると【死んだように生きるのは死んでいるのと同じ】という考えになってしまって、【じゃあ、もぅ、(死んでも)いいよね。】となってしまいます。

亡くなった後の世界、“地獄”は本や文献、掛軸などで知るのみで信仰が違えばまた各々違った世界なのでしょうか? 実際に在るのかも今、現世に居る以上はわかり得ないですし、、。

お坊様でしたら、こんな質問を投げ掛けられたらどのように応えられますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

事実と観念

ご相談拝読しました。

>【生身で(現実の毎日)感じる“地獄”と、自ら命を絶ったら堕ちるとされる“地獄”】どちらが辛いのでしょう?

のご質問の答えは、残念ながら「比べようがない」ということだと思います。私たちには「今」しかないからです。

もしも死んだ先に地獄があってそこに赴いて辛いならば、その辛さはその時の辛さ。そしてあなたが今辛いのは間違いなく今の事実。それを比べようとするのは頭の中での考えに過ぎないもので事実ではなく、観念なのです。

観念では真に人は救われません。

>【辛さ】を感じないように心を閉ざし、感覚を断ち毎日を過ごそうとすると【死んだように生きるのは死んでいるのと同じ】という考えになってしまって、

まさにこういうことです。実際の辛さを観念だけで感じないようにしようとするのは事実をごまかしているに過ぎません。
どんなに上手くごまかそうと、見ないようにしようと、上塗りしようと、それが残っているならばずっと底の底でくすぶったままで、また何かの縁にその辛さが噴出してくるのみです。

ならば私たちが真にすべきことは真正面から事実に向き合う事です。

辛さに対し、何で私がこんな辛いめに合わなければならないのかと、その辛さを不当なものとして悩むのでなく、

この辛さこそ私の問題だと、ならばどうしてくれようかと、主体的に真正面から真に悩み向かっていく

その主体的な態度選択によってこそ、辛く苦しい人生においても同時に「これが私だ」「これが私の人生だ」という満足が感じられるのではないでしょうか。

死後や異空間としての地獄があろうとなかろうと、そこから私たちは今学び、今問われ、今導かれるならば、そういう教えは「ある」とか「ない」とかを超えて、私たちに現実としてはたらきかける作用として存在するのです。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
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