困っている人に遭い過ぎて疲れてしまった
ここ数日、道や電車の中で困っている人に非常に遭いやすいのです。
荷物をたくさん積んだ自転車を倒してしまったお母さんや、
券売機で交通ICの使い方がわからないおばあさんなど。
もちろん目の前でそういう事が起きれば手を差し伸べます。
いい事をした後は当然良い気分になるものです。
しかし短期間にあまりにもそういった状況に遭遇しすぎたため、
次第に疲れや理不尽さ、苛立ちを覚えるようになりました。
また、一周まわってこれは何かの罪罰か?私が何かしてしまったのか?という疑りまで抱き始めてしまっています。
徳を積む上でこのような考え方に陥るのは一番好ましくないとは当然理解していますが、
可能であれば、こういう時どういう風に思考すれば悪い感情が生まれないのか教えて頂きたいです。
何卒宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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疲れるのは頭です
拝読させて頂きました
疲れる
私達がよく使う言葉ですが
なぜ疲れるのかということを
まず理解する必要があります
人は楽しい時疲れを知りません
例えば釣り人は釣れてさえいれば一日中釣りをしていられます
仕事が好きな人は寝るぎりぎりまで仕事をし仕事を考えます
まるで疲れ知らずなように動き続ける
そのように人は楽しい時
身体の疲れを忘れるほど物事に没頭しているんですね
頭の中は「あーしたらいいんじゃないかこーしたらいーんじゃないか」と考えながら身体を次から次へ動かし続けるのに夢中なのです
では疲れるとはどういう事でしょう?山登りの際でも年齢によっても差がありますが5分の休憩でかなり回復させることができ、再び登ることができます
つまり例え自転車を10台直しても荷物運びを10回手伝ったとしても肉体的はあまり疲れません
このように
だいたいの疲れとは体ではなく頭が疲れるのです
頭がやりたくない、やらなければならない、正しいことをしなければならないと囚われると、囚われるほど全てが疲れてしまいます
仏教では徳を積む事や正しく見て正しく考え正しく行うなど
正しい生き方を進めるわけですが
お釈迦様が苦行に見切りをつけたように正しい事をする事で苦しむ事を勧めているわけではございません
目指すは精神的極楽なのです
「うけたもう」とは
私どもが修行の際事あるごとに申す返事です
「喜んでやらせていただきます!」と良い年したおじさん達は多少の理不尽にもニコニコ返事をします
修行中断る返事は使わないんですね
何故などと理由など探したところで殆ど見つからないのです
目の前に起きた事どんな事も
ありのまま受け止め
ただ喜んで積極的に淡々と「させていただきます」
そんな姿勢が何事も大事なのではないでしょうか
合掌
質問者からのお礼
そうですね、善行という事を重視しすぎる余り
実際に負担した肉体的疲労よりも過度に不平を覚えていた節はあります。
ありがとうございました。