「注目されたがり」の自分からの脱却
私は昔から「注目されたがり」の性格でなにかと問題を起こして来ました。
中学生の時、部活の先輩にあまり構ってもらえなかったことがあり、興味を引こうとして「悪口を書いた日記帳」を合宿に持って行って先輩たちと一悶着起こしたことがあります。思ってもない「悪口」を書くことによって、自分に注目してもらおうと考えた浅知恵でした。
結果として興味を引けたわけですが、部活全体を巻き込んでおおごとにしてしまった苦い経験となりました。
その後、高校、大学と中学時代とはまた品を変えて「興味を引こうとする」ようなことをして揉め事を起こして来ました。
今年社会人となりましたが、やはり心のどこかで「同期よりも注目されたい」という浅ましい心があります。
もう学生時代のようなことを繰り返したくありません。
どのような心構えで生きていけば良いでしょうか?
また過去の失敗にどのように向き合えば良いでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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名利の大山に迷惑す私たちは、自己肯定感を持つことです。
こんばんは。亀山純史と申します。
私たちは少なからず、注目されたいという気持ちはどこかにあるものだと思います。問題は、「どう注目されるか」ということでしょう。注目されたがりの人の言動は、知らず知らずのうちに、どんな些細なことでも、「あの人は注目されたがりだから」というレッテルを周囲の人たちに持たせることへと繋がります。でも、このような注目のされ方は嫌ですね。注目されるんだったら、尊敬されたいですよね。
しかし、このような「注目されるんだったら、尊敬されたい」などという考え方は、迷いの思考なんです。親鸞聖人はご自身のことを「名利(みょうり)の大山(たいせん)に迷惑して」と述べられました。「名利」とは名誉欲 と利益欲のことです。「名誉欲と利益欲に振り回され、迷い、苦しんでいるのが、この私なのだ。」と親鸞聖人は告白されているのです。先ほどの「注目されるんだったら、尊敬されたい」なんていう思いはまさに名誉欲でしょうね。
このように、私たちは「常に自分をよく見せたい、注目されたい、尊敬されたい」という欲の塊です。そこで、少しでもこのような欲をなくすようにするためには、自分の強みを早く見つけることだと思います。つまり、自己肯定感を高めることです。自己肯定感が高い人は、周りに左右されずに、自分の道を進むことが出来るでしょう。そしてそこには、自分自身を他人とを比較するような言動、他人に注目されたいという気持ちは少ないことでしょう。
質問者からのお礼
語彙力が乏しく今の気持ちを表現するには言葉が足りないのですが、ご回答を拝読しストンと荷が降りたようなそんな感覚がありました。
まず、親鸞聖人のお言葉が心に響きました。なんだか自分ばかりが目立ちたがりで注目されたいと思っていたような気がしていましたが、聖人のような方でもそう思われる、そう感じるということは人が生きている限り逃れられない欲なのだと分かったような気がします。
加えて、「自分は自己肯定感が強い」と思っていましたが、ご回答から「思い悩んでいるということはまだまだ自己肯定感の低い人間なんだ」ということを自覚させられました。
貴重なお言葉、本当にありがとうございました。自分と向き合いながら、強みを探しながら、欲と付き合っていこうと思います。
乱文失礼致しました。