私度僧としての托鉢は駄目でしょうか?
3年ほど前にスッタニパータを読んで以来仏法の素晴らしさを知り、日に何度か座禅を組むようになりました。けれど、いつまで経っても睡魔にすら打ち勝てず、煩悩もちっとも減らず(減るものでもないのでしょうけど)、日々の生活に虚しさが募るばかり。主要な大乗経典も大方読みましたが、知識として蓄積するだけで、実行が伴いませんでした。
私は早々に聖道を諦め、凡夫であることを受け入れて阿弥陀如来に帰依しました。
弥陀の誓願の有り難さをひしひしと感じながら、日々念仏を称えています。
ただ、どれだけ念仏を称えても、日頃の生活の内で多くのことに囚われ、信仰を忘れます。
私のように下生下品の愚人は、在家のままで信心決定などあり得ないのでしょう。
いずれは遍歴して、そこで念仏申すだけの路傍の石のような身でありたい。
そうしてその姿が、誰かの仏縁になるかもしれないという淡い希望もあります。
勝手に出家して、私度僧として托鉢で暮らすのはお寺に迷惑になるでしょうか?
布施がなかったり、病に掛かったりで死ぬこと自体は全く怖くないのです。
ただこの何処へ向かうとも判らない迷った心のまま、ふと死を迎えるのが恐ろしいのです。
決して一時の考えではありません。
どうか智恵をお貸し下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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布施を受ける覚悟
”勝手に出家して”
”私度僧として托鉢で暮らすのはお寺に迷惑になるでしょうか”
たしかに坊主は【乞食行】(こつじきぎょう)だとよく言われますが、本当にあなたにその覚悟がありますか?
【布施】とは大別して二種類あります。法の施しをする【法施】、食べ者や物品、現金などの施しをする【財施】です。元来、出家と在家、お寺と信者はそうやって持ちつ持たれつの関係で、互いに養い合ってきました。つまり、どちらかが一方的にもらうだけではありません。出家者は財の施しを受ける一方で、ちゃんと法の施しをせねばなりません。【托鉢】とは単なる物乞いではありません。托鉢をして食事を施してもらう前提には、とてつもなく重い責任が発生します。
そもそも自分は布施を受けるに値するか、もう一度しっかりと自らに問うてみてください。
質問者からのお礼
ご回答有り難うございます。
ちゃんと自分を見つめ直そうと思います。