信用できないお坊さんがいる
私は仕事柄お坊さんと関わることがあります。
お会いする多くの方は本当に良い人ばかりで、宗派は様々あれど皆さんそれぞれに仏教を大切にされているのが伝わってきます。
また、そういった方々から仏教の話を聞かせていただくこともとても楽しいです。
しかし、お会いするお坊さんの中には人を傷つける様な方もいらっしゃいました。
セクハラをしたり、人の噂をあることないこと言いふらして評判を下げたり、あからさまな言いがかりで人を怒鳴りつけたり、そんな現場にであったこともありました。
そういった方々に出会うと悲しくなります。
お坊さんも1人の人間で完璧な存在ではないということは理解しています。
それぞれに性格があって考え方も違うものを持っているということも分かります。
ただ、仏教に日常的に触れていながら何故人を傷つけたり、尊厳を傷つける様なことをするのだろうと疑問に思います。
私は今の仕事にやりがいを感じており、色んなお坊さんたちとお話しするのも楽しく仕事を続けたいと思っています。
ただ、前述した通り時折傷つくこともあるので仕事を変えようかと悩むことが増えました。
どのように心の折り合いをつければよいでしょうか。
アドバイスをいただけますとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
お坊さんからの回答 5件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
どこかで僧侶を信用している意識が強いのでしょう。
拝読させていただきました。
十人十色ですよね。僧侶も同じくおっしゃる通りひとりの人間です。
はむすけさんがおっしゃること理解できます。仏教では「増上慢」であると、その僧侶を看做します。
仏に身を置く人間は戒律を遵守し生涯において自身に誓願しなくてはなりません。
しかし普段から「先生」などと呼称されること、敬われること、末法の世であることから、戒律を遵守することを忘却しがちに心は形成されていきます。
驕り昂る僧侶も多いのも確かです。また、僧侶側は知識を持つゆえに相手(在家)に対し、「この分からずや!」と自己認識が自己を歪め、慈悲を通り過ぎ、諭すことを忘れていることもしばしばです。
ここからがご返答になるのですが、相手に嫌悪感を抱く僧侶は人であり、完璧ではないことをすでに把握しているのであれば、その僧侶に対して僧侶としての"信用"の心の眼を外して付き合いすることが「要(かなめ)」になると思います。
僧侶だから「こうであるべき」とどこかで理想像があるのではないかと感じます。
それが「期待」なのです。
ゴムを引っ張れば引っ張ればやがて切れます。期待の気持ちを持ち続けることも同じで、はむすけさんの勝手な僧侶像の期待を持っていてはゴムのように切れてしまい、やがて僧侶自体全員に対し疑心感が湧くことを心が形成していきます。
たまに仕事上でお付き合いする僧侶なら、「ほどほど」な距離感を保ちながら、仕事をし、苦手な相手への対応の仕方なども学んでいくように切り替えてみてはどうでしょうか。
仏教では「悩みの無い人はつまらない。悩んだ人ほど味が出ていき、悩みから智慧(心)が萌芽していくと把捉します。」
生きていく上に、大半を占める悩み事は"人間関係"です。知識も必要ですが、人間関係を円滑にする方法を学んだほうが人生が楽になっていきます。
苦手な相手は自身を成長させてくれる「良薬は口に苦し」と思って、まだまだこれから成長してやる!「こんな僧侶ごときで自身の心を汚してはもったいない。」と言い聞かせていきましょう。
参考程度までに。
合掌
触れ方の問題でしょう。
具体的には分かりませんが、現代日本の仏教に、お仕事として?関わってくださり、ありがとうございます。
仰る通り、「日頃接しているはずなのに」、その実現具合は人によって様々です。それは寂しいことですが、やはり現実です。
私たち坊さんは「悟りを開きたいと思っている、道半ばの人間」ですので、「仏様ではない」という意味で皆同じなのです。
だから、その方と接したら「道半ばですね」と未熟を見取り、聞き流せば良い。どのみち玉石混合なのですから、あなたが良いなと思える、尊敬できる方がいれば、その人に学べば良いのです。悪縁からは離れよということです。
学校の勉強だって、その後それを使って生きていく人もいれば、試験さえパスしてしまえばすっかり忘れる人もいる。仏教の八正道(正しい行い)の中の言葉で言えば「精進してる?」ということなのですが、それが続いているかどうかは、本人次第。なので多分。
あなたも仏教に少なからず触れているのならば、他人がどうこうよりも、自身がどれだけ仏教を生活に活かせているか?普段使いできているか?を点検すべきです。
あなたもまた、仏道を歩んでいるのです。その仲間であると思ったら、彼の為にも坊さんを特別視することなく、「イヤそれ、私も傷つきますよ」「いい加減にしてください」と真顔でスルーしてあげて良いのです。
繰り返しになりますが、玉石混合の中で、「誰を玉と見るか」はあなたの目利きです。石は捨て置いてよい。そしてできたら…お仕事続けて欲しいと思います。
わが身の程を省みること
拝読させて頂きました。
そのように人を傷つけたりひどいことをする僧侶がいることをあなたはとても苦しく思っているのですね。詳細なあなたやその方々のことはわからないですが、あなたがとても悩みなさっていることを心よりお察しします。
私もそのような方々にお会いすることがありますし、ひどいことを言ったりなさっている姿を見て本当に嫌になりますし、本当に軽蔑してしてしまいます。全くとんでもないと思いますし、僧侶というか仏弟子である資格さえないと思ってしまいます。
そのような方々の姿や言動をご覧になって仏様や神様やご先祖様はどう思われるだろうと思ってしまいます。
因果応報ですからその方々がなさったことは必ず自らに戻っていきます。ですから自ら進んで自らをおとしめているのです、自ら進んで悪意や悪言や悪行をなしていますから、必ずその報いを受けます。つまり自ら苦しむことになります。それは致し方のないことです。
そういう姿を見るにつけ私自身も自ら戒めなければならないと心に誓いますね。その様なことをその方々がしているということは自分もしてしまう可能性があります。ですからしっかりとわが身の程を見つめ直してその様な悪意や悪言や悪行をしない様に日々心掛けていきたいですね。
あなたがその様な愚かなことをなさらず、善き考えや言葉や行いを日々心掛けて毎日を心清らかに充実して生きることできます様に、周りの方々とお互いを尊重し合い思いやり心から幸せに生き抜いていかれます様に切に仏様や神様やあなたのご先祖様祈っております。そしてあなたを心より応援させ頂きます。
自分の内側の修行
ご相談の背景、とてもよくわかります。
お坊さんであっても、日々の言動が仏教の理想から離れてしまうことはあります。僧侶も「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぷ)」。
つまり煩悩を持ったまま生きる存在であり、修行の途上にあります。袈裟を身にまとっていても、その人の未熟さや心の偏りが表に出てしまうことは珍しくありません。
仏教には「三毒」。貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)があります。これらは人を傷つける行為の根にあり、僧侶であっても修行が浅ければ影響されます。逆に言えば、僧侶であっても人間らしい葛藤を抱えながら生きている証拠ともいえます。
心の折り合いをつける方法として、私は次の三つをお勧めします。
・「人」と「仏法」を分けて見る
僧侶の言動と、仏教そのものの価値を混同しないようにします。人は間違いますが、仏法は汚れません。
・「縁起」で受け止める
相手の行動にも原因と条件があります。それがあなたに向けられたときも、「その人の過去・環境・未熟さの現れ」と縁起的に眺めると、感情に巻き込まれにくくなります。
・善き縁を大切に育てる
あなたが尊敬できる僧侶や仲間との関係を深め、心の拠り所を増やすことが大切です。そうすれば、時折出会うつらい出来事にも呑み込まれにくくなります。
仏教の修行は「他者を変えること」ではなく「自分の心を整えること」です。
傷つく場面に遭っても、それを自分の内側の修行の機会とできれば、この仕事を続ける意義もさらに深まるはずです。
合掌
能力(実力)は人それぞれ
例えば同じ陸上競技部に所属していても、実力には個人差があります。
陸上部員でも野球部員より走るのが遅い子もいます。
煩悩(欲・怒り・怠け・プライドなと)を制御するということは、仏教で重視される能力なのです。
しかし、その能力にもやはり個人差があるのです。
バカな僧侶をみたときに「善悪」として評価すると悪人に見えて腹が立ちますが、「能力」として評価するならば「能力には個人差があるから仕方ないな」と思えるかもしれません。
ということで、欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩は誰にでもあり、それを制御する能力には個人差があるから仕方ない、自分にも煩悩があるし大目に見てやるか、と慈悲の眼差しで見ればあまり腹が立たない(怒りの煩悩を制御できる)かもしれませんね。
質問者からのお礼
・佐藤良文さま
ご回答いただきありがとうございます。
他人がどうこうよりも自分のことを点検すべき。というお言葉にハッとしました。
私なりの受け止め方ですが、仏教は自分を内省する教えなのかなと思っています。
相手をスルーするスキルも練習しながら、自分を点検しつつもう少し仕事も頑張ってみようと思います!
・法源さま
相手に強く信用、期待しているのではないかというお言葉、言われてみるとその通りだなと感じました。
相手を自分の理想像に当てはめようとしすぎてしんどくなっていたのかも知れません。
相手を自分の価値観に合わせようとするよりも、おっしゃる様に苦手な相手への対応の仕方を学んだり練習する方向にシフトチェンジしてみようと思います。
前向きなアドバイスをくださりありがとうございます!
・願誉浄史さま
ご回答いただきありがとうございます。
お坊さん=みんな聖人みたいなイメージが私の中にあったのかなと感じました。
人だからみんな煩悩を持っていて、そして怒っている私のこの気持ちも煩悩だったのですね。
また何か辛い現場にあったら、それぞれ能力には個人差があるという見方を実践してみます!
・Kousyo Kuuyo Azumaさま
あたたかいお言葉をかけてくださりありがとうございます。
仕事を続けるとなるとこれからも傷つくことはあるかもしれませんが、自分自身のことを見つめながらお坊さんたちと、仏教とこれからも関わっていけたらと思います。
応援のお言葉、嬉しく受け止めさせていただきました!
鈴木秀彰さま
ご回答いただきありがとうございます。
お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。
仏教の修行は「他者を変えること」ではなく「自分の心を整えること」です。というお言葉身に染みました。
相手のことばかり見て自分のことを見れていなかったかもしれません。
自分と向き合う機会だと思って改めて仕事に臨んでみます!ありがとうございます。