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自己憐憫から脱したいです

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初めて質問させていただきます。

私はよく自己憐憫に陥りがちです。最近、それが顕著に見られるようになってきました。

何故最近特に自己憐憫にはしってしまうかというと、理由の1つに大学のサークル活動が挙げられます。
私の所属するサークルでは、昇級試験があります。

この間昇級試験があったのですが、一度落ちてしまいました。自分では力不足なことが分かっていたので、再試験までしっかり頑張ろうと思いを新たにしたつもりだったのですが、試験の後の練習で、先輩に間違っている箇所の指摘を受けるたびに涙が出てきそうになりました。「わたしは頑張っているのにこんなことさえもできないのか」という気持ちを抱いていました。

その後、再試験では無事昇級することができました。しかし、先輩の「よのこさんは昇級するかどうかギリギリだったみたいだよ」という冗談で何故か今まで堪えていたのに泣いてしまいました。

そのあとは泣き通して、次の日の練習でも大泣きしてしまいました。練習の最後には、「こんなにわたしが辛い思いをしているのに、なんで誰も慰めてくれないの?」という気持ちにさえなってしまいました。

自意識だけが膨らんで、かわいそうな自分に酔っているのが本当に気持ち悪いです。気持ち悪いと思っているのに、隙あらば自己憐憫に陥ってしまいます。
サークルの人たちをだいぶ困らせているし、このままだと友達を失ってしまうだろうなとも思います。

自分でいくら言い聞かせても、自分かわいさに結局は自己憐憫を肯定してしまいます。客観的で冷静なご意見がいただけたら嬉しいです。

稚拙な文章で申し訳ございません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そのSOS信号では誰も拾ってくれなかった事件

私が娘の幼稚園の誕生会に行った時、ランチと世界がひっくり返りました。
誕生会は親が一緒にお昼ご飯を食べるのです。
娘の友達のAちゃんが面白くないことがあったらしく、楽しいはずのご飯の時にふてくされて体育座りでずーっと怒った顔でグスングスン泣き通しだったのですが、誰も、誰も、誰も!…構ってくれないままAちゃんの「いじけ泣き」は周りから拾ってもらえずお昼を過ごしました。
私の人生の中でこんなにおいしくないランチは無かったです。二度とごめんだ、と思うほどでした。
普通だったら「(*´Д`)誰か助けてあげなよ~」とか「仲間に入れてあげなよ」とか、そういう感じになるところでしょう。いえ。現実は残酷でした。
誰も拾っても救ってくれない。それが現実だったのです。
ちゃぶ台こそひっくり返しませんでしたが、人生がひっくり返るランチでした。
それ以来、娘が不機嫌になってAちゃんみたいないじけをした際には「お父ちゃん(私)超絶仏智キレで怒られ&導き」が我が家で始まります。「不機嫌やいじけやふてくされることは(# ゚Д゚)人生において何の意味もないから!絶対にやめろ!(エコー)」と。
娘からは嫌がられますが、ちゃんと道理も説明してその後の導き先・フォローも用意してそれが良くないことを諭し、やめさせます。最近娘もようやく理解してくれたようです。トータルで5回は伝えたと思いますので娘から教わってください。
人生において「いじける」という泥沼ハマり心理は何も良いことを生み出さないから、やめた方が絶対にあなたの為なのです。
・いじけるのは誰も嬉しくない(現場がしらける)
・いじけるなら話をする(どうしてほしいか言う)
・泣いてても泣き方が痛いと誰も助けてはくれない(それが現実)
哀しい現実ですが子供たちの世界ですらみんな自分の楽しみを優先するのです。誰も拾ってくれないまま。もちろん、そばにいた私は大人として坊さんとしてもやるべきことの限りを尽くしましたが、効果ゼロ。最終的には「ああ、いつものAちゃんのアレが始まったのね。」と先生が2回程励ましに来ましたが頑固で意固地になっていたAちゃんグジグジといじけていました。人生には時と場合によっては損しか生み出さない行為もあることを子供たちから教わりました。もし、この話が効果が無く、今後もあなたが凹んでいれば私も明日のランチで体育座りでいじけてみます。orz

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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