亡くなった人の願い
お世話になっております。
いつも過去の中絶についての質問ばかりをさせて頂いていましたが、今回は広く亡くなった人の願い?気持ち?についてお聞かせ頂きたいと思います。
一昨年、去年と立て続けに私と主人の祖母が亡くなりました。生前は本当に良くしてもらって、大好きなおばあちゃんです。
特に主人の方の祖母は亡くなってからまだ4ヶ月で、頻繁に思い出します。ガンであっという間に亡くなってしまいました。
亡くなった人に対して、後悔の念というものは尽きなくて当たり前かと思いますが、もっともっと感謝を伝えたかったという思いでいっぱいです…。
しかし、祖母達や私の病気の為に産んであげられなかった赤ちゃんを含め、亡くなった人達は、私がもっと色んな事をしてあげたかったと嘆く事は、決して望んでいませんよね?
都合が良いかもしれませんが、色々してあげたかったと、そうやって思ってくれるだけで、十分だよ。ありがとう。と言ってくれると思いたいです…。
今まで回答を頂いた通り、自分を責めるような事は止めました。亡き人達が願う私になりたいです。
ハスノハのお坊様達のおかげで、仏教について学んでいます。もうすぐハスノハを卒業できそうです。
しかし友人にこのような話をしたところ、死んだら終わり。後悔したって遅い。そんなのは自己満足。など、ボロボロに言われてしまい、落ち込みました…。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
すごいです
ご相談拝読しました。
自分の思い中心の視点から亡き人の願い中心の視点へと、あなたのなかで大転換があったのですね!
これは本当にすごいことです。大きな大きな一歩です。
ご友人の言葉は余りにも心無いものであると思います。「死んで終わり」ではありません。ならば「あなたは死んで終わりになる様な命を今生きているの?」ということになります。
亡き人にもっとこうしてあげたかったという後悔は確かにあることでしょう。では生きてさえいれば本当に何かしてあげられたのか?というと疑わしい、それならば生死は関係ないのです。
死してはじめてその人の願いに気づく
ということがあります。それを受け取るならば人は死んで終わりではないのです。
亡くなった人の願いや気持が生きている人のそれと同じように確かめられるわけではありません。
それはどこまでもあなた自身の事実への目覚めとして確かめられるのです。
私が私の思いで「亡き人は満足している」と思い込むのでなく、「私が自分自身の姿に気付けたのは亡き人の存在のおかげだった」と頷くところに亡き人の願いを感ずるのです。
死んだらもう遅いならば、生きている間なら思う通りに相手のために何かできたのか、そう思うのは傲慢であると私は思います。
相手が生きていても亡くっていても、至らない自分であることには変わりがない、そこに目が向くかどうか。それを自己満足と言うならば、自分が相手のために何かしてあげられていると疑わないのも自己満足です。
亡き人の願いを確信する瞬間があって満足してそれで終わりという話ではなく、ず~っと亡き人の存在によって自分自身の在り方に気づかせ続けていただく、亡き人と共に生きる歩みが始まるのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます!!
とても心にストンと落ちました。これからも迷った時は、お言葉を読み返して、心を静めたいです。