自分の作り方
自己肯定感の低さに悩み、どうにかして自分らしく生きていく術を模索していたのですが、そもそも自分とは何なのかが分からなくなりました。
以前より私の中には、自分自身に執着しないこと、自分に過剰な興味を示さないことが美徳だという考えが漠然として在り、この信条に従って自分よりも他人様の為にと思い行動することを心がけていました。人がやりたがらない仕事に取り組んだり、相手の気分を損ねない様に気を配ったり、自分の事をを二の次にする事で信条を果たしていた、つもりでいました。
しかし実際のところ、私はただ人に嫌われたくなかっただけだったのです。人の為に何かをしていたのも、結局は大勢に好かれたいという思いからしていたに過ぎませんでした。
自己への執着を捨てるつもりが、他者に媚びるだけの行為に成り下がり、行き着いた先には弱りきった自分がいました。
今では人との話し方も忘れてしまいました。本音と建前という言葉がありますが、相手に嫌われたくない一心で建前だけでしか話すことが出来なくなりました。相手から見たら上っ面だけで話している風にしか見えないのだと思います。
自分らしく生きてみようと思っても、自分というものがどこにも見当たらないのです。自分のことが分からず、他人への興味も消え失せ、宙ぶらりんになった感じです。これまで自分がしたこと全てが偽善に思えて、本当に好かれたいと思った人は遠ざかり、手元には虚無感のみが残りました。
私が再び自分と向き合い、自分の人生を自分の生き方で歩んでいくにはどうすれば良いでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「ありのままの…」
私は、回答する際に、
ネガティブな考えをされている方には、励ますようなコメントを…
独善的な印象を受けた方には、厳しいコメントを致します。
それは、単に相談者の考えを否定するのが目的ではなく、「視点を変えると同じものでも違って見える」ということをご自身に気づいて頂きたいからです。
『暗い』で悩まれている時は、反対の『明るい』を勧めるのではなく、『物静か』という『暗い』の別の捉え方を紹介しました。
【自己肯定感】というのは、「自分のプラスポイントを指折り数える」ではありません。
「ありのままを受け入れる」ということです。
では、『ありのまま』とは何か?
「自分の固定観念でとらえず、採点評価もしないこと」だと私は考えます。
例えば、あなたが心掛けておられる『他人を思いやる』…は、美徳とされています。
しかし、「相手から良く思われたい」「嫌われたくない」という『見返り』が生じると、その行為が「相手からどう思われるか?」という採点評価の対象になってしまいます。
『思いやる』とは、「相手の立場になって考える。その時自分に何ができるか考える」ということです。
…ただそれだけです。
どう思われるか?…を意識してしまうと、「優しい言葉」あなたの言う「建前」しか言えなくなってしまいます。
でも、それが本当に相手を慮った『優しさ』でしょうか?
「厳しい言葉で励ます」や「ただ寄り添って見守る」であっても、場合によっては『優しさ』になるのではないでしょうか?
結果的に他人からどう思われるか?(自分がどう評価されるか?)…ではなく、自分の精一杯で考えて行動する。
精一杯考えて行動したのであれば、それ以上の考えも行動もできません。
だからそれを『ありのまま』に受け止める…それが、【自己肯定】というものだと、私は考えます。
ん~~
分かりづらくてスミマセン…
(^_^;)
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追 記
基本的にあなたの考え方やパーソナリティーは、素晴らしいと思います。
あとはその方向性のまま、ご自身で納得できるスタイルをどう定めて行くか?
私は諦め悪いので、これからも見守らせて頂きます。
質問者からのお礼
前回の質問に引き続いて回答していただきありがとうございます。
難しいものですね…人を思いやるというのは…
辛いこと、悲しいこと、寂しい時間、色んなものが押し寄せて精神的に参ってしまっていましたが、改めて自分を見つめ直すきっかけになってくれたとも最近は思えてきました。
まずは見返りを求めずに奉仕する事を心がけていきたいと思います。そこに至るまでの自分と、そこからの自分を辛抱強く見届けていければと思います。
ありがとうございました。