自分が嫌いです
はじめてのご相談失礼します。
僕は幼い頃に母が出て行き
父も家にほとんど帰らず、いつも一人で遊んでました。
田舎に住んでいたこともあり、世間の目は厳しく
小学校でできた友人は両親から親のいない子と遊んではいけないと言われたそうで
遊べないと去って行きました。
親と一緒に参加する学校行事も苦痛でしか無かった。
自分にはなにもないのだと無力なのだと子供ながらに絶望しました。
僕は次第に無性に人の評価を気にするようになりました。
今まで親がいない事で自分を差別した世間を見返してやると躍起になり、
名誉に執着し、人を見下すために努力してきました。
同世代のグループの中で一番権力を持つ事
スポーツでも勉強でも1番になる事
誰よりも面白くある事
それに徹しました
そうでなければ生きてる価値はないように思いました。
みんなが自分を認めていくたびに周囲を騙している感覚に陥りました。
復讐するかのように成果だけを求めて実現させていきました。
大勢の人が好きだと言ってくれて
自分の事を評価しました。
本当は臆病で弱くて一人ではなにもできない自分を隠して虚勢を張り続けてきました。
他人を屈服させる事だけを生き甲斐に生きてきたんです。
でも
もう疲れました
誰もが認める女性と結婚して子供が産まれても
世間の評価を上げるために仕事に没頭する自分を見兼ねて妻は不倫をして
子供を置いて出ていきました
それで思い知りました
自分は誰も愛することができないと
子供との遊び方、接し方がわからず
一人で遊ぶ我が子を見てると
幼い頃の自分を見ているようで
ただただ虚しく、自己嫌悪に陥ります。
それでも子供には惨めな思いはさせたくないと高い服を着せたりして、物を与える事で自分を安心させている状態です。
子を通じても世間からみた自分を完璧に演じなければならないと
自分の事しか考えられない心がなお存在します。
苦しくてなにもかもやめてしまいたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分中心から、子供中心へ
こんにちは、はじめまして。
ご文面を拝見し、驚くべき精神力で努力を続けて来られた半生が伝わってきます。これまで息つく暇もなかった程でしょう。その懸命なお姿に、胸が締め付けられる思いが致します。認めてもらいたい、愛してもらいたかったのですね。努力の末に評価と愛情が返報されると思って努力されたのでしょう。その切なる願い、叫びが当方にも伝わってきます。
しかし、その人生の方針が行き詰っている今、誰かに話したかった、ご相談されたかったのですね。
「子を通じても世間からみた自分を完璧に演じなければならないと自分の事しか考えられない心がなお存在します」と仰っています。もう既に須崎さんは、ご自分を中心とするものの見方に気が付いていらっしゃいます。そうです、私を含めて人間は自己中心なのです。紀元前の昔、お釈迦様が既に仰ったことです。
自分の都合、自分を中心、基準として気に入ることを貪り(貪欲:とんよく)、気に入らないことを怒り退け(瞋恚:しんに)る。「常に何かに怒っている」とプロフィールにお書きですが、何が気に入らなくて怒っているのでしょうか。もしかすると「自分を」評価してくれない、「自分を」愛してくれないから、とお感じなのではないでしょうか。そういった事実を知らないという事を、愚痴(ぐち)と言います。痴、知っているつもり、わかっているつもりが、病に侵されている、これを痴と言います。愚かで知っているつもりが根本になって、自分中心に物事を判断する。それが人間、私であるし、須崎さんでもあるのです。
これに気が付かせてもらったなら、自分を中心とした物事の見方を少しでも転換していけるでしょう。自分の幸福と共に、子供の立場の幸福を考える。子供は、今何を望んでいるのだろう、子供の幸福とは何だろう、それは子供に尋ねることから始まるでしょう。いままでは、もしかするとあなたが考えた幸福を子供に押し付けていた可能性があります。素直に口から出てこないかもしれません。丁寧に、じっくりと子供の幸福に迫ってみてはいかがでしょう。
幸福は、分かち合う人がいて、分けあってこそ始めて幸福になります。
一人で幸福になることはありません。
いま、ここから、子供さんとじっくり向き合った人生をどうぞ歩んでください。
ご多幸を願って止みません。