自分の寂しさ
母の妄想、誤認が認知症のためだと頭ではわかっているのに優しくできない、とご相談しました。
今さらながら気付きました。私は寂しいんだということに。
自分では両親のためを思って頑張っているつもりなのに、その事どころか話をしても正面から顔を見ても私を娘だとわかってくれていない、
「ありがとうね」とか私に言われたことに謝って「すみません」と言うのも娘ではない誰か他の人に向けての言い方。
すべて認知症という病気のせいだとわかっているけどやっぱりあきらめられなくてきつめに
「さっきから何度も私だって言ってるでしょう!」とか、これ以上一緒に居たくないと思って食事も自分の部屋で別に食べたりとかしています。
そばにいるよ、頑張ってるよってわかってもらいたいのにどうにもならない寂しさなんですよね、きっと。
でも今後、状態は良くはなっていきません。
慣れるしか、あきらめるしかないのでしょうね。
だったら早くあきらめて楽に、穏やかな気持ちになりたいです。
何かご助言いただければ、と思います。
よろしくお願いいたします。
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粗い意識と微細な意識
さくら様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
認知症となられてしまわれましたお母様とのこと、誠におつらいことでございます・・
肉体と心の関わりは密接であり、認知症など脳資質や機能の後退、ダメージが心へと与える影響も大きなものがあるため、本来の意識通りのことが難しくなってしまわれていることも、ある程度やむを得ないところがございます。
もちろん、生きている間も、死後においても、そのような肉体に左右されない微細なる意識が連続して続いていっている次第となりますが、凡夫においては、その微細な意識を知ることはできず、コントロールもできず、業・カルマ(行いの集積)に従って、様々に赴いてゆくこととなります。
しかし、その微細なる意識へと善き変容を働きかけることは可能であるかと存じます。今の肉体に左右されてしまう粗い意識ではなくて、死後も引き続き連続して続いていく微細なる意識への働きかけでございます。
肉体に支配されてしまっている粗いレベルの意識は、もはや肉体の崩壊とともに、どうしょうもないのですが、死後にも続く微細なる意識へと向けて、静かに慈悲の思いを向け、優しい言葉をかけ、心配りや、配慮ができれば、大変に有り難いことになるのではないかと存じております。
上記のことを理解するのは、非常に難しいのですが、要は、粗い意識と微細な意識が二つあり、微細な意識こそが、死後も続いていく本来のお母様であるとして、その微細な意識へと向けて、善き変容をもたらしめられていけるように、少しなりにも、できることで慈悲の思いにて働き掛けを賜れましたらと存じます。
きっと、その慈悲の思い、優しい思いは、お母様の微細なる意識の中において、善き変容をもたらせしめていけることができるとして、諦めたり、慣れたりというわけではなくて、そのように少しなりにも思われて、接されて頂けましたら有り難くに存じます。
ご家族皆様のお幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました