可哀想という気持ちについて
環境問題や動物、病気の人には罪悪感やどうにかしたいという感情がわくのに、自然災害や大事故、事件で怪我をしたり亡くなられた方には心があまり反応していないように思います。
私が未熟で世の中の出来事を身近に感じられていないせいなのでしょうか。
事件などでは犯人が何故そのような犯行をしたのか、動機や生活環境のせいなのか、こうしたらそんな事件を起こさずに済んだのではないか等と考えます。
被害者の方にはこうすれば被害に遭わなかったのではないか、自分は気をつけよう、そのような感情ばかりが出てきてしまいます。
家族には冷たい人間だと言われます。
可哀想と思わなきゃいけない、そう思えるようにならなければいけない気がするのですが、なにか違う気もするのです。
導きがほしいです。
・口うるさい ・人の価値観を認めるのが苦手 ・普通にこだわってしまう ・心で思っていても行動に移せない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人はみんな未熟です。
夏子さんこんにちは。
拝見いたしました。
可哀想と思わなきゃいけない、そう思えるようにならなければいけない気がするのですが、なにか違う気もするのです。
私も可哀想と思わなければいけないというのは違うと思いますよ。
事件などでは犯人が何故そのような犯行をしたのか、動機や生活環境のせいなのか、こうしたらそんな事件を起こさずに済んだのではないか等と考えます。
被害者の方にはこうすれば被害に遭わなかったのではないか、自分は気をつけよう、そのような感情ばかりが出てきてしまいます。
こちらの方がよほど具体的で冷静で大事です。
ただ感情をより強く持った方が行動しやすいのは確かです。
環境問題や動物、病気の人には罪悪感やどうにかしたいという感情がわくのに、自然災害や大事故、事件で怪我をしたり亡くなられた方には心があまり反応していないように思います。
この違いは私には良く分かりません、ご自分が関われるか関われないかという事でしょうか?
一度ご自身で何が違うのか言葉にしてみるのもいいかも知れません。
私の意見の結論を申し上げるとあなたは自分の考えや気持ちにもっと自信を持っていいと思いますよ。
行動というのはある程度人の指図を受けなければいけません。好き勝手やっては迷惑や犯罪という事もあります。
けれど
こころまで人の指図を受ける必要はありません。
こころは自由であるべきです。