黙り達者になりたい
こんにちは。毎度お世話になっております。
今回の質問の内容ですが、話し上手でも聞き上手でもなく黙り上手、つまり黙り達者になりたいというものです。
そう思い至った経緯についてですが、そもそも私はお喋り、雑談の類が苦手で、気心知れた友人とはくだらない話もしますが、基本的に口数は人よりも少ないです。
昨今よく言われるコミュ障という奴です。なのでコミュ力の高い人たちが楽しそうに会話をしている様を「羨ましいな」と思い側から眺めていました。
どうして自分はあんな風に上手に人と関わりあえないのだろう、どうして自分は面白い話の一つもできないのだろうとずっと思っていました。勝手に疎外感さえ感じていました。
しかし以前hasunohaで質問をした際に頂いた「視点を変える」という考え方をきっかけに、話下手という自分のコンプレックスの見え方が変わってきました。
別に無理して話さなくても良いのではないだろうか。別に会話が続かなくても良いのではないか。会話が途切れた瞬間に死ぬ訳でもないし。
そもそも自分が欠点と思っていた話下手は欠点ではなく、見方を変えれば(大分無理やりですが)黙ってるのが得意という風にも捉えられるのではないか。
口達者がいるなら黙り達者という人種がいたっていいのではないか…
自分に合った生き方をすれば良いじゃないかと思い、そうして自分なりのコミュニケーション方法を模索してみようと思い至りました。
初めは聞き上手になろうとも思ったのですが自分は愛嬌愛想に乏しく、巧みに相槌や質問を駆使して相手からどんどん話題を引き出していくというのは話し上手よりもパワフルでハードルが高い感じがし、結果黙り達者という造語に辿り着きました。
基本的には黙っていたいのです。しかしただ黙っているだけでは目の前の相手は不快なだけですし、それでは黙り達者の名が廃ります。
黙り達者を目指す者としては、相手には気持ちよく喋ってもらい、時には互いに沈黙の時間すら心地よく過ごしたいのです。
結局は聞き上手の技術も必要にはなるのですが、相手に不快感を与えずに物静かにしておくにはどうすれば良いでしょうか。取り敢えずは肩の力を抜いて微笑みながら人と接していこうと思っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
時に静 時に動
こんにちは、初めまして。
コミュニケーションのことでお悩みですね。なるほど、黙り達者ですか・・考えましたね。
コミュニケーションとは難しいものだと思います。なぜなら十人十色のケースがあり、自分のコンディションも毎日一定でないからです。心が安定してる日もあれば、そうでない日もあります。自分と相手の組み合わせは、何十通りも何百通りもあります。何度経験しても慣れないのはこのためかもしれません
私があなたにお考え頂きたいのは、コミュニケーションは常に動いているということです。
私は学生時代剣道部でしたが、試合になると初対面の人が多いのでその間合いの取り方が難しいです。相手と向き合いながら、押したり引いたり、気勢をあげたり切っ先を変えたり、目で訴えたりそうやっていわばコミュニケーションをとるのです。時に静に、時に動にという具合です。
もしそんな状況で、自分は黙して引き動かないと決めてかかるなら、試合の結果は自ずと不本意なものに終わるでしょう。これと同じ事を企図しようとしてはいないでしょうか。コミュニケーションに、自分ルールを持ち込むと逆に不本意な結果になると思います。
私は、コミュニケーションは相手への興味を持ち続けること、相手の立場になって考え続けることだと思います。今日は表情が明るいな、暗いな。忙しそうだな、何か予定があるのかな、などなどを観察するのです。興味を持って問いかけると、相手は嬉しくなるものです。だから、そのお返しにこちら側にも同様の問いが返ってくる、そういうキャッチボールだと思います。そういったことを、言葉で、目で、動作で相手に伝える。そういう中で、闊達なやり取りも、沈黙も心地よくなると思います。
口達者というのは、私の中ではあまり良いイメージがありません。口数が多く、口巧者という油断ならないニュアンスの言葉だからです。その反対としての黙り達者はどうでしょう。黙して語らず、かっこいいイメージもありますが、身近にいると「何を考えているんだろう・・・」と不安になりそうな気もします。動き回りすぎても落ち着きがなくなり、静か過ぎても場を不安にさせます。
柔軟に、相手と動き続ける距離感を楽しみつつ、少しづつコミュニケーションの実績を積んでいってください。ローマは一日にしてならず、でしょう!
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
自分ルールを持ち込もうとしている…
自分が何をしようとしていたのかがまるで分かっていなかったようです。お恥ずかしい限りです。
改めて自分が求めていたものが何かを考えると、それは多分円滑なコミュニケーションなのだと思います。
知らず知らずのうちにこうしてさえいれば大丈夫だという手段を欲してしまっていたようです。
どう心構えてみようとも、コミュニケーションの本質はキャッチボールのようなものなのですね。
時に快活に接し、時に心静かに接して、変わり続けるその場の流れを楽しむようになれればと思います。
ありがとうございました。