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実兄が攻撃的

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実兄との接し方について相談させてください。

兄は独り暮らしをしています。
兄は精神科に通っており、服薬しています。
精神科の通院は実母の病気死別など色々つらいことが重なった頃からです。

兄は本来、穏やかな性格だと思っていたのですが、最近は周りの人に対して攻撃的になってしまいました。

私にもきつい言葉で攻撃してくるため、時々兄からの電話やメールがあると手が震えてドキドキしてしまいます。嫌な思いをするので、できれば電話にも出たくありません。

穏やかだった兄に戻って欲しいのですが、どう接したらよいのかわかりません。
実父母は他界しており相談できる人もあまりいません。

わかりにくい文章で申し訳ありません。
どうかよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

焦っても辛くなるのはあなた。

精神疾患が原因なのだから、ある程度あきらめないと仕方ないのでは。
元に戻って欲しい気持ちはわかりますが、お兄さんご本人は、自分が間違っていると思っていないのかもしれませんから、お兄さんは、戻りたいとは思っていないかもしれません。
兄妹といってもやはり他人なので、思いどおりにいかなくても仕方ないのです。

接するときは、毎回普通に接してはどうでしょうか。
お兄さんが出す怒りの感情につられて、こちらも攻撃的になったりしても、何も良いことはない気がします。
穏やかになってもらいたいなら、あなた自身が穏やかに接するのがベターでしょう。
一方で、お兄さんにべったりになってしまってあなたの日常生活に支障がでるのもいけませんね。
精神的な病気は、長いつきあいになる場合があるでしょう。
早く治って欲しいと焦っても苦しいですね。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

やさしいことばで安心させる

お兄ちゃんは怖いのでしょう。
アナタではなく、お兄ちゃんの方が怖がっているのです。
何か思い当たることがあるはずです。
お兄ちゃんは何かを失いませんでしたか?
何かに傷ついただけのはずです。
もしそれが家族の事であればあなたはそっと背中なり肩なりをさすって、お兄さんの味方であることを伝えてあげてください。お兄さんは恐怖のあまり、身内にですら攻撃的になってしまっているようですね。
誰かに強く否定されたり、自分が自分であることを許されなかったり、プライドを損ねられるようなことがあったりしたと思うのです。
「お兄さんを見る時は実物以外相手にしない」と強く念じてください。
メールも電話も、本人が目の前に居ません。
あなたは目の前に居ないはずのお兄さんにおびえているでしょう。
それはお兄さんではなく、あなたのお兄さんへのイメージ。自分の思いであると知ると良いでしょう。自分の思いであるということは、絶対にそれはお兄さんではない。
だから、乱れなくなります。
頭の中でリアル・現場・お兄さんと、自分のお兄さんへのイメージが混同してしまっているのです。
どちらが本物ですか?
そうですね。
リアル・現場・お兄さんだけです。
直接会った時のやり取りしかありません。
あなたも過度に防御的にならず、どこかの戦地で傷ついた兄を介抱してあげる、というつもりで優しく接してあげてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

願誉浄史様、回答ありがとうございます。

兄妹でも他人であるというお言葉にハッとしました。

穏やかに接するように心がけて行きたいと思います。

きっと今後も願誉浄史様のこちらの回答を辛くなったときに何度も読み返すと思います。

少し気持ちが楽になりました。
ありがとうございます。

丹下覚元様 回答ありがとうございます。

兄は同時期に色々な悩みを抱えていました。
確かに思い当たることがあります。

丹下様の回答を読み、私は兄に対して必要以上におびえていた事に気づく事ができました。

まだ少し兄に対してこわいイメージはありますが、「実物以外相手にしない」を強く念じていきたいです。

少しずつ気持ちが楽になってきました。
ありがとうございます。

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