明日死ぬので
先日書き込んだ者です
希死念慮が消えず
明日やっと死ぬ事となりました
少し気が楽になりました
虐待された人間にはやはり困難なようです
お話聞いていただけた事は忘れません
今は気持ちが静かです
さようなら
ありがとうございました
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こっちにおいで
仲の良い友だちができて、素敵な恋人ができて、あなたのために一生懸命に骨を折って下さる人たちが現れて…、ああ、ありがたないなぁ、嬉しいなぁ、私もやっと人並みに…なんてふと幸せを感じた瞬間、次にその人たちに裏切られたら今度こそ二度と立ち直れないような気がして、せっかく今までどんな苦しみにも耐え抜いてやっと維持してきた「私」が木っ端微塵に粉砕されてしまうような気がして、まるで先制攻撃をしかけるかのように、せっかく訪れた幸せをいつも自ら捨ててしまうんだろう?
本当は誰よりも人のぬくもりを求めてきたのにね。
そして、今は自死宣言をしている。
これもまた先制攻撃だ。
今まで死ぬよりつらい人生を歩んできたんだ、自分を見失ってしまっても無理はない。
でもね、
そんなことしなくていいんだよ。
恐縮ですが、お願いです。
はるさん、こんばんは。
自ら命を絶つことは、個人の責任であり、個人の自由とお考えかもしれませんが、仏教の縁起という関わり合いの中の命であることを思うとき、それは社会の責任でもあり、私の責任でもあるのです。
何も関係のないような私が首を突っ込んで
「死ぬな」
と言ったところで、右から左へと受け流されてしまうことかもしれません。
この世は捨てたもんじゃない、生きてさえいればきっと希望を持つことができる、人の喜びを自らの喜びとして生きていくことさえできれば等々、きれいごとばかりが思い浮かんでしまいますが、お伝えしたいことはただひとつ。
「死なないでほしい」
私の自分勝手な思い、見ず知らずの人間のたわごとと聞こえるかもしれません。こちらの気も知らず、好き勝手なことを言ってと感じるかもしれません。しかし、本気で思っています。
「なんとか生きてほしい」
生きたからと言って、この先どうなるかは正直わかりません。
なので、おこがましい言い方になるかもしれませんが。
生きて、またご相談いただいて、一緒に悩みましょう。
ただただそう願うばかりです。