何を言われても死ぬと思います。
去年の12月に夫が救急車で運ばれ、1月に小腸がんの発覚、1か月の余命宣告を受けました。抗がん剤治療をしてうまく合っても5か月程しか生きられないと言われ、本人がしないという選択をしました。
夫は当時35歳でした。
1月で私は仕事を辞めて、毎日病院にお見舞いに行っていました。
その後緩和ケア病棟を経て在宅医療を受けています。
最初のうちは良かったのですが、体調がどんどん悪くなり、痛みがひどくなり、今はもうトイレもベッドで行い、自分で寝返りを打つこともできません。
介護は義母と2人で行っています。義両親とは物理的に距離が離れているところに住んでいたので、年1-2回しか会うことはありませんでした。
今回共に介護をしてみて、考え方や生活スタイルが違い、ストレスを感じています。
そうは言ってもトイレにも行けない相手を一人で介護することはできないため、なんとか頑張って暮らしています。
夫は食べると腸から出血が増すため、点滴で生きているのですが、その点滴の中に今日から睡眠薬を混ぜて眠らせることにしました。
痛みがひどく、モルヒネや座薬などではもう効果が少ないための、最後の手段です。
痛みが酷い以外にも、私や義母を呼びつけてお願いをされるため疲労が蓄積してしまったことも、混注に踏み切った一因です。(本人了承済みですが)
きっとこのまま、どんどん状況は悪化していき、いつか旅立ってしまいます。
本題です。
私は自分も後追いしてしまいそうです。
今は職もないし、夫の介護が生きてる意味になりつつあります。
介護はとても辛いです。
私は親族と絶縁しているため、頼る身寄りもなく、子供もいません。
義母とは争うこともあるので、義父母に頼ることはできません。
友人はいますが、友人がいたからなんなのでしょう?
私が死んだらきっと悲しむでしょう。でもきっといつか忘れます。
生きる意味を探しているのではありません、もう何をすることもできません。
苦しまない自殺があったら、確実に行っていると思います。
死ぬ気になればなんでもできると言いますが、なにかを始める気力がありません。
将来私は1人で死ぬのであれば、今死んだ方が遺骨も夫の墓に入れてもらえるしいいのではないかとしか思えません。
相談したところで、何か解決できるわけでもありませんが、書き込んでみました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたには神仏の慈悲がさしています。
ご質問拝読させていただきました。
愚僧も辛くなって、
思わず涙がこぼれ落ちました。
本当に、本当に、
つらいですね。
でも、あなたの上から、
神仏の慈悲の光明が、
明るくさしているのが、
わかりませんか?
あたなに万が一のことが、
あった時に、
御供養はだれがしるのですか?
年老いた義理のご両親や、
ご自身のご両親が
ご主人さまと、
あなたさまの御供養を
することになりますね。
それでいいのでしょうか?
あなたには、
あなたの気持ちは、
どうしようもない自分を
助けて欲しいという、
魂の叫びだと、
愚僧は考えています。
そんなあなたにこそ、
神仏の救いがあるのです。
この身今生の魂ではありませんよ。
生まれ変わり死に変わり、
ご主人さまが、
先に浄土に還られるとます。
あなたが後を追って、
行ったらどうなりますか?
ご主人さまは、
今世の御寿命です。
あなたさまは、
途中離脱ですよ。
ご主人さまに
ご迷惑をかけることに、
なりませんか?
あなたの御寿命は、
まだまだこれからです。
生き抜くんです。
生き抜いて、
生き抜いて、
年老いて、
白髪になり、
歯が抜け、
腰が曲がり、
もういいかい?
とその時に、
ご主人さまに、聞いてください。
まあだだよ!
と言われたらまだ生きる。
もういいよ!
と言われたら、
ご主人さまを先頭に、
阿弥陀さまはじめ
諸仏諸尊が、
五色の雲に乗って、
お迎えにきてくださいますよ。
それまでは、
生きなさい。
南無阿弥陀仏
道理
お気持ちお聞かせいただきました。
私には察するに余りあるものですが、あなた自身もあなたの言葉になる以前の気持ちそのものを上手くは表現できないのではないでしょうか。
そしてその気持ちをなんとか言葉として絞り出したものが「何を言われても死ぬと思います。」ということなのだと思います。
それをどうして私が勝手に否定できるでしょうか。
もちろん私個人としてはあなたに生きて欲しいと願います。それが人情です。でも人情では人を救えません。
だからあなたにはあなたが本当に願うようにしてほしいです。
さて、
>「何を言われても死ぬと思います。」
という言葉について別の視点から考えますとこれは道理です。ご主人だけでなく、あなただけでなく、私にも全ての人にも当てはまる道理です。人はいつか死ななければなりません。そしてその死はいつであろうが一人で受け止めていかねばなりません。
経典にはそうした私たちの姿が「独生 独死 独去 独来」と説かれます。これは厳しい事実です。
でも、人は死んで終わりではないのです。
死によって生まれるものが二つあると言われます。一つは「亡き人という存在」、もう一つは「亡き人と共に生きる私」です。
そのことをあなたがどう感じるか、どう受け止められるか。どう確かめていくか。
あなたがどんな歩みを選ぶかは私には強制することは出来ません。そしてあなたもまたそれはその時の縁の中ではじめて選びうるものなのだと思います。
仏様なら「そのまま来い」と、どんなあなたをも受け止めるのでしょう。私にはそのことをあなたと共に味わうしかできません。
南無阿弥陀仏
旦那様と一緒に
拝読させて頂きました。
旦那様が病に苦しまれている中あなたもとても辛い思いをなさっておられることと思います。そのお気持ちは全はあなたしかわからないかもしれませんが、あなたのお気持ちを心よりお察し申し上げます。
旦那様は今あなたと一緒にこのいっとき一時を全精力を傾けて一生懸命に生きていらっしゃるでしょう。見ているのも辛いかもしれませんけれどもあなたも旦那様に寄り添い一生懸命に生きていらっしゃるでしょう。このひと時ひと時はかけがえのない時間です。
見ていられなくなったり、疲れ果ててしまうこともあるでしょう、そんな時にはちょっと休憩なさりあなた自身の心も体も休めて下さいね。睡眠もできるだけ取り、栄養あるものをしっかりと召し上がって下さいね。そしてあなた自身の気力も体力も充実させて下さい。
旦那様はあなたと一緒にそのかけがえのない人生を生き抜いていかれます。どうか可能な範囲でそばで旦那さんをサポートなさって下さいね。
旦那様はあなたと出会い、あなたと一緒に喜び合い楽しみあい、分かち合いながら幸せに人生を今も生きています。あなたも旦那様とのかけがえのない出会いや時を過ごして幸せに生きているのです。
どうかこの時々を大切に共に過ごして下さいね。
私達はあまたのご縁に恵まれて命を与えられて生きています。私達は有限ですから必ず天寿を全うする時が来ます。その天寿を全うする時には仏様や神様やご先祖様方や沢山の親しい方々が優しく迎えて下さいます。私達は決して独りではありません。
あなたも旦那様も今も沢山の方々に見守られて生きているのです。沢山の方々から支えられ励まされて寄り添って頂いて今生きています。
そしてあなたはこれからも旦那様と一緒にあなたに与えられた命や人生を生きていきます。
もし宜しければあなたのお気持ちをここでも教えて下さい。或いは心の中で旦那様や仏様や神様やご先祖様方にお話なさって下さいね。
あなたのお気持ちは必ず旦那様や仏様や神様やご先祖様方が必ず受けとめて下さいます。辛い思い悲しい思いをどうかありのままお伝えなさって下さい。
あなたは大切な方です、そしてこれからも旦那様と一緒に生きていきます。あなたと旦那様のご縁はころからもずっと永遠につながっています。
貴女をサポートする方が顕れます
ちかりん 様 苦しく辛い中、投稿していただきありがとうございます。
「私は自分も後追いしてしまいそうです。」
は、本当は、後追いしたくないので、何とか生きる方法を探したい。
これが本心でしょう。
あなたは、そのことに今は気づかないかもしれませんが。
ターミナルケアやグリーフのケアをする僧侶やセラピストがいます
一人で抱え込まずに、その様な人に相談してください。
きっと貴女をサポートする方が顕れます。
そのことを覚えていてください。
今後、ご主人の意識が薄れて、意思の疎通ができなくなるかもしれません
貴女は辛い悲しみの中にいるかもしれません。
それでも、貴女にはサポートする方が顕れます。
哀しみ中から立ち直る力を人は持っているという事を教えてくれるでしょう。
それを心の片隅にでも覚えていてください。
心に寄り添えるようにいたしますので、
どうぞ、ここへの相談など、続けてください。
一礼
追伸:「私達は記憶という媒体があるからこそ、生きていられる。その記憶には限りがあり、忘れてしまう。忘れることによって得られる幸せもあるのでしょう。でも夫と過ごした時間と、遺された時間を過ごす今。私にはもう1つの選択肢として、死ぬことによって永遠にしたいのです。」
記憶に限りがある。ってそれは、私はそうは思えません。潜在意識には忘れた記憶が残っています。そして死ぬことによって永遠になるかどうかは答えがない事も、お伝えしておきます。私にはあなたが居るからこそご主人の事が永遠になる様に思いますが。
あなたは、わかっているのです、とよく返答をしているようですが、わかっているのは、表面だけかもしれませんね。ご主人とのことも、貴女がそう思うようにあなた自身があなたをそう思っているのでしょう。そこには実は、大きな希望があるのではないですか?それは、優しさかもしれません。愛情でしょうか。それとも自分とご主人との愛にもっと思いやりを向ける事でしょうか。もしかしたら奇跡でしょうか。かなりお疲れと思います。仏様にすがるという事もあるでしょう。それでもあなたの居場所はあると思います。
追追伸:再お礼メッセージありがとうございます。泣くだけ泣いていいのです。字数制限の為これまで。もしメール(honsyoji.sk@ddknet.ne.jp)いただければ、心のケアのお手伝いをさせていただきます。再々礼
質問者からのお礼
Kousyo Kuuyo Azuma様
私の拙い文章にお答えいただきありがとうございます。
きっと突然の別れを経験した人からすると、介護が辛いことよりも一緒にいることができる時間があるからいいではないかと思われるでしょう。
私も出来れば夫に長生きしてほしいのです。1か月の余命宣告を受けた夫が今を生きていることはきっと奇跡だと、わかっています。
それはもしかしたら、私のご先祖様や誰かがもたらしてくれているものかもしれません。
病気が発覚した頃も今も夫は、自分が死んでもそばにいるよ。化けて出てくるよ。来世でもずっと一緒にいるよ。と言ってくれています。
でも私はどうしても信じることができないのです。
未来ほど不確かなものはないとわかっているからです。
母は自死していますが、母の気配など感じたことがありません。小さな私を残して死ぬくらいなので、母はこの世に未練はなかったのかもしれませんが…
昔から私は1人で生きていくと決めていました。そのために、人一倍強さを身につけていました。
だから結婚もしないと思っていました。
でも夫と出逢い、幸せを知ってしまったのです。
幸せを知ったことで、「1人で生きていく」強さを失いました。
私に幸せを与えてくれていたのは、夫だけなのです。
病気が発覚した当時、一緒に死のうと夫に伝えていて、納得してくれていました。
私はそれができれば一番幸せだと、今でも思っています。
でも夫はもう話すことも辛そうなくらい、病に蝕まれているのです。
到底一緒に死ぬことなどできません。
私は夫のために死ぬのではないのです。
自分のために死ぬのです。
未来が怖いから、生きていても今以上に幸せなことがないことがわかっているから。
時間が解決してくれると経験者は言うでしょう。
でも私は夫のことを忘れたくないのです。
時間が解決してくれることは忘れることだと知っているから。
全てをわかっている今だからこそ、生きていられないのです。
少しだけ気持ちを書かせていただきました。ありがとうございました。
吉武文法様
私の拙い文章にお答えいただきありがとうございます。
そうです。タイトルを決めるときに、何にすればいいのだろうと考えた結果、きっと私は誰に何を言われても、この先生きてはいけないだろうと思ったのです。
お坊さんに助けてもらうために、ここに書き込んだわけではないのです。
この先もう生きていけないということを私は決めてしまっているのでしょう。
他人の人生について誰かが何かを決めるとことは、おかしなことです。
アドバイスや意見を聞いて、決めるのは最終的に本人なのですから。
死んでみないとどうなるかはわかりません。
仰るように生きていたとしても、いつかは私は死ぬのでしょう。
私が死にたいと言うことをここに書いた理由は、誰かに止めて欲しいからではないのです。
ただ書くことによって、自分の頭の中を整理してみたかったのです。
私は今まで試練であろうものを沢山乗り越えてきました。
きっと私に与えられた課題が今世であるのでしょう。
ほんとうは私は今の辛い経験も乗り越えて、未来の誰かのために生きなければいけないのでしょう。
そういうこともわかってはいるのです。でももう投げ出してしまいたいのです。
覚悟が決まってしまっているのです。
ありがとうございました。
花山雲吉様
私の拙い文章にお答えいただきありがとうございます。
そうですね。まだわかりませんが、私はきっと遺体が発見されない状態で死ぬでしょう。
行方不明者として届出をされ、誰かに心配されつつ忘れられていくのだろうと思います。
もし遺体が発見されたとしたら、夫と同じ墓に入れてほしいですね。
お墓は生きている人のためにあるものだと私は考えています。
死んだ人はお墓にはいません。
供養をしてほしいとは思っていません。
私の遺骨も海に流してもらってもいいのです。
私も誰かの中で生き続ける必要もないのです。
きっともっと他の方法もあるのでしょう。
私が死んだとしても、もしかしたら今の人生と同じものを永遠に繰り返すのかもしれないと、薄々気づいてはいます。
きっと人生の課題をクリアしなければ、次のステージにいけないのだろうとわかってはいるのです。
でも私は何でもいいから、途中離脱したいのです。
夫も巻き込んで苦しませてしまうかもしれません。
ただわたしは傲慢なのです。
1%の幸せと99%の幸せがあったとして、1%の夫との幸せを選びたいのです。
涙も頂戴して、申し訳ないです。
私がここに書いてしまったことで、苦しめてしまいましたが、いつか僧侶様も私のことなど忘れますので、ご安心ください。
釋 孝修様
私の拙い文章にお答えいただきありがとうございます。
一般的に辛いことがあったとしても、生きる目的を見つけることができれば、なんとか辛い経験を乗り越えていけるだろう。ということは私もわかっているのです。
きっとこれまでやこれからの経験は、人生の中でも貴重な経験で、糧となっていくだろうということは想像はつくのです。
ただ私は糧にしたくないのです。
辛い想いをすることで得られるものはほんとうに必要なものでしょうか?
私は哀しみを乗り越えて強くなりたくないのです。
そんな強さを求めていないのです。
夫が病気になって、約半年いろんなことを考えました。勿論その中には、どうにかして生きていくと決めたこともありました。
家族がいなくなっても、1人で生きていくことはできるし、友人に頼ることもできる。
きっと探せば再婚することもできるだろうし、まだ30歳なので子供を産むこともできるだろう。あの時死んでなくてよかったと思うこともあるんだろうと。
でもわたしは全ての可能性を棄てて、旅立ちたいと今思ってしまったのです。
グリーフケアやカウンセリングをすることで、自分の中にないアイデアや実際に経験した方の話を聞いて今の自分にできることが何かを考えることも、きっと私に必要なことなのでしょう。
でも求められないのです。
一時的な辛さなのかもしれません。
そんなことわかっているのです。
私達は記憶という媒体があるからこそ、生きていられる。その記憶には限りがあり、忘れてしまう。忘れることによって得られる幸せもあるのでしょう。
でも夫と過ごした時間と、遺された時間を過ごす今。私にはもう1つの選択肢として、死ぬことによって永遠にしたいのです。
だから私は今を大切にします。ありがとうございました。
釋 孝修様
追伸もいただき、ありがとうございました。
きっと私は未だに夫が死ぬであろうことを受け入れられないだと思います。
そこには希望があるのでしょう。
未来への恐怖が強いのです。
今日はもう、夫は話すこともできず、目も合わせることができない状態になってしまいました。
弱い私は泣くことしかできません。
泣いて何かが変わるわけではないんでしょうけど…
わたしは疲れてるんでしょうね。
今は何もかもにも絶望しかできません。