自己肯定感をあげたい
現在大学院生で研究や就活に従事しております。私の悩みは自己肯定感が低いこと、できない自分を責めすぎることです。
幼い頃から勉強できるといわれるのが嬉しくて今までずっと勉強には努力を推しみませんでした。その結果、日本人なら誰でも知っている難関大学に入学しました。しかし、大学へいき気づいたことは私より地頭がいいひとは沢山いて自分はたいしたことがないことです。今まで勉強できることが自分の自信の一つだったのでどうしてもそのことを認められず、完全に自信を失い、なんでこんなに能力が低いんだ!と自分を責めてばかりで苦しいです。それを補おうともっともっとを目指して日々反省で正直、楽しくないです。自分の能力を認めることが最善策なのはわかっていますが、いまいち浸透せずむしろ認めることが怖くて認めるくらいなら努力して能力をあげたいと心が思ってしまい結局努力しても理想との乖離は存在するので辟易します。
何かアドバイスをいただけたらと思います、よろしくお願いします。
他人から評価してもらいたい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
比較ではない基準をもつ。願いを確かめていくことが大事では。
自己肯定感が低いという事で悩んでおられるのですね。人と比べてしまい自分を認めることが出来ない苦しさが伝わってきました。まず、勇気を持って誰かに相談できたことが素晴らしい。大事なのは、自分の弱さをまず話したり、認めたりしていく事かもしれないです。
あなたはどうなりたいのでしょうか?何のために、努力しているのか?そこを考えてみては?人と比べ、人より上に立つことが目的になってしまっていませんか?確固たる願いがあるならば、人と比べて落ち込んでいる場合ではないと思うのです。例ですが、英語が上手になりたいという願いがあり、本物であれば、本を読んだり、人に会ったりして、コツコツ行動するはずです。落ち込んでいる場合ではない。ところが、願いが明確でないからこそ人と比べてしまって落ち込む。比較しか基準が無ければ自分が努力して、能力が高くなったとしても、今度は、自分より能力が低い人をつまらない奴と見てしまうのではないでしょうか?自他を能力の物差しで切っていく。自己の願いを明確にし、各自の願いに向かっていく事に主眼を置く。
私の師はこう言っていました「頑張ったことを自慢し誇るのではなく、頑張れていることに感謝出来る者になって欲しい。そういう者になる事を君は仏様から願われている。」仏教では生かされていることは当たり前ではないと考えます。頑張れていることが既に自分の力ではないのです。その事に気づき、頑張れていることに感謝できる人は少ない。そこへの自覚の方がよほど尊いと仏教は説きます。そこに目を向けてみては。
あなたが、能力が低いと感じているのは、それによって拒絶されていると感じたことがあるからかもしれない。しかし、拒絶は一つの意見でしかありません。人が本当に必要としているのは、他者からの受容ではなく、自分自身からの受容なのです。ありのままの自分を受け入れていることが、他者の承認を求めるときの前提条件です。それが、他者の承認の結果であってはならないのです。あなたは、まず自分を大事にしてあげて下さい。どんなあなたであろうと応援しています。
観て欲しい動画があります。NHKでも放送されたものです。拒絶されることってそんなに悪いことなの?と考え直させられます。日本語字幕で見てください。
https://www.youtube.com/watch?v=iwl-Pe0FbSg&t=44s