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世の中

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有り難し有り難し 19

私は、これまで3つの職場を経験し、
様々な人とかかわりました。
以下の行動をする人が、どの職場にも存在しました。

※マウンティング
※人から仕事をとる
※いじめる
※自分が一番よいポジションをとる
※権力のある人にごまをする。権力の無い人には邪険に扱う。

自分が一番というのは、生存(本能)だからしかたがないですか?でもそれでは、動物と変わらないですよね。

(社会の縮図としての)学校の場合も同じ事が
いじめと言う形で表面化しています。

どうしたらこのような人がいる世界が変わるのでしょうか。
良い方法はありますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

変えるべきは世界なのかどうか

ご相談拝読しました。お気持ちは分かります。

お考えの事は

中野信子『ヒトは「いじめ」をやめられない』 (小学館新書)

などの本が参考になるかもしれません。興味深い内容でしたよ。

さて、お坊さんとして思う事を少し書かせていただきます。

仏教の方向性としては、「世界を変える」よりも「私が変わる」というものだと思います。そして「私が変われば世界が変わる」とも言えます。私は私の見る世界を生きているからです。

もしもいじめをする人を排除して、いじめをしない人だけの世界にしても、今度はまたその中でいじめをする人が出てくるでしょう。

おっしゃる通り人間の抱える本能、仏教的に言えば煩悩があるからです。そして社会生活を営むということはこの煩悩と刺激し合うものであるからです。

人には差別する心が有ります。人種差別などのいわゆる差別という意ではななく、物事を好ましいものと好ましくないものに分けてとらえて考えるというものです。

好ましいものを自分に近付け、好ましくないものを遠ざけたいという在り方を内に抱えているのです。

そしてそうした私たちが社会生活を営むということは、それぞれの好ましいものを守る在り方のぶつかり合いになるのです。
さらに会社や学校では出世争いや人気者になるということ、あるいはやりがいというものも含め全てがその在り方とある意味で相性がよく、煩悩が膨れ上がってしまうのですね。

かといってそうした社会を捨て一人山にこもれば悩みは減っても寂しいだけです。

ではどうしたら社会を捨てず社会にあって社会に埋もれず歩んでいけるのか。

それは厳しいですがやはり「私が変わる」ということなのではないでしょうか。

「私が変わる」とは我慢したり迎合したり自分を殺すような在り方ではありません。理想的に誰とでも仲良しこよしできるということでもないでしょう。

煩悩という人間の抱える悲しい事実を私の内に見るならば、社会をも正しく見つめ、その課題を主体的に引き受けて歩む勇気が湧いてくるのではないでしょうか。

社会や世界という大きな枠で考えるよりも、まずはあなたの具体的な問題から考える事が有意義な一歩となるのかもしれません。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
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