真宗大谷派について
こんにちは。僕は浄土真宗を学ばせてもらっている者ですが、今までは「派」について考えたこともなかったのですが、大まかに「本願寺派」と「大谷派」があるようですね。しかも、往生観が大きく異なるようです。本願寺派は死後(現世でもありますが)の救いを重視し、大谷派は「縁起」の救い?を重視しているようですね。こう見ると、僕はどちらかというと大谷派になるようです。
しかし、大谷派の場合の「往生観」がよく分かりません。浄土は、この世の「法」を空間的に現した方便なのですよね。「法」の世界は、無分別の世界だと思うのですが、人間の分別心は消えないのですよね。機の深信により分別心が明らかにされたのに、法の深信では浄土(無分別の世界)に往生させると言う。矛盾している内容だと思うのですが、僕が間違っているのですか?
二種深信は同時に起こるものだと理解していたのですが、今の僕は機の深信だけが実感できている状態です。
お詳しい方、回答していただけると有難いです。
HSP気質で生きづらく、人目を気にするあまりすごく不器用な人間です。 しかしデメリットばかりではなく、生きづらいからこそ、生きづらさを解消するために色んな本に手を出しましたし、仏教に出会うことができました。 人生において様々な悩み事があり、お坊さんのご意見やアドバイスをいただきたいと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【群盲評象】
【念仏】に本願寺の東も西もない。
浄土真宗に伝わるありとあらゆる聖教を知り尽くしたとしても、念仏の十声一声に勝るものはない。
あなたはまだお若いようだが、称名念仏なかんずく口唱念仏を疎かにし、蔑ろにし、トンチンカンな【群盲評象】に明け暮れてきた先輩たちのように成り下がらぬように。
<追記>
”未だにお念仏の素晴らしや有難さが分かりません”
これはこれで結構な事だ。日々の念仏は、消火器を常備しておくようなもの。念仏も消火器も、その威力、ありがたみなんて思い知るチャンスなんかないほうが、健康で幸せなのかもしれないね。
"僕は自分の真実の相をいただくことがお念仏だと考えている"
転落院は、それは違うと思います。
"転落院さんにとって、お念仏とは"
端的にいえば、「な・む・あ・み・だ・ぶ」と言うだけの事。あえて親鸞さんの言葉をお借りすれば、例えば、
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
この言葉に100%納得するには、やっぱり念仏の日々を送るしかありません。ただ、もしこれが死ぬが死ぬまで理解が至らなかったとしても、それは大した問題ではありません。
<追記2>
“お念仏そのものが救いということでしょうか”
あえて「違う」と言いたいなぁ。
火事になった時、消火器そのものが救いだとはいささか言い難い。
“親鸞の教えに従う他ないと”
少なくとも、転落院の場合はそうだった。でも、あなたも同じなのかどうかはわからない。親鸞さんも「あなたの判断にまかせる」とおっしゃっている。しかし、浄土真宗を学びたいのなら、やっぱり、一にも二にも南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と時を嫌わず、ところを定めず、唱えて、唱えて、唱えまくってみてほしいものだ。
そんな複雑に考えなくても
極楽浄土は悟りやすい環境だから、まずは極楽浄土に生まれることを目指す。
悟りの大学に合格するために、極楽という有名な塾に入るのです。
極楽塾には、入りたいと声を上げた人は誰でも入れます。
経典に書かれていることはシンプルです。
無分別がどうとか、そんなこと考える必要はないと思います。
質問者からのお礼
転落院さん、前回に引き続き回答していただき、ありがとうございます。
お念仏。以前回答していただいた時も、お念仏の大切さをおっしゃっていましたね。
正直なところ、僕は未だにお念仏の素晴らしや有難さが分かりません。
転落院さんにとって、お念仏とはどういうものなのですか?よろしければ教えてください。
僕は自分の真実の相をいただくことがお念仏だと考えているのですが、どうなのでしょうか?
追記回答ありがとうございます。分かったつもりになっているだけかもしれませんが、お念仏によって何かが得られること(これはある人も自力だとおっしゃっていました)が救いなのではなく、お念仏そのものが救いということでしょうか。親鸞がただ法然の教えに従ったように、僕達(あくまでも僕はですが)も親鸞の教えに従う他ないと。
ありがとうございました。お念仏を大切にしていきたいと思います。
なるほど。たしかに消火器そのものが救いだと言うのもおかしいですね。やはり、そこに「信」がなければいけないということでしょうか。
お念仏そのものでは救いとは言えず、そこには「ご信心」が無ければならない。僕の理解ですが...。
僕も親鸞の教え以外に道はないと実感しています。やはり、そこにも「信」があると思います。
これからも、ご聴聞とお念仏を称える生活を続けます。ありがとうございます。
願誉浄史さん、回答ありがとうございます。僕は少し考えすぎる癖がありまして、細かいことも気になってしまう厄介な脳を持っています笑
あまり考えすぎないように考えます。ありがとうございます。