還相回向について。回答受付中
現在、様々な宗派を学んでいるのですが、浄土宗・浄土真宗における還相回向とは、往生の後再び肉体を帯び菩薩として衆生を導くことなのか、往生の後仏となり肉体を帯びずに衆生救済の働きをすることなのでしょうか?
ご教授頂けると幸いです。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
往相・還相という回向
浄土真宗の教義について学んでおられるのですね。
お尋ねの還相回向については多様な解釈があります。ですから一概にこうだと限定して断言できるものではないことをご理解下さい。
さて、還相回向についてはやはり往相回向とセットで考えるべきでしょう。「回向」という現象の両側面に往相と還相があるのです。その回向の主体は法蔵菩薩(阿弥陀仏)であるというのが親鸞聖人の理解です。
すなわち、法蔵菩薩が一切衆生の救済を目的として浄土建立を誓い、とてつもない永い時間の修行の功徳を衆生に振り向けるのが往相、浄土を建立し阿弥陀仏となった(最高の真実に到達し姿形を超えた)ならば、今度は衆生救済のために再び姿をあらわすというのが還相なのでしょう。
これはお経に説かれる物語的表現ですから、それが実際にはどういうことなのか?というのが疑問なのだと思います。
親鸞聖人は回向について「阿弥陀仏が名号を衆生に与えること」と端的に示してくださってもいます。名号とは南無阿弥陀仏のことです。
ですから今私たちが南無阿弥陀仏とお念仏申すことに往相・還相の両側面があるとも言えます。
今私がお念仏を申すのは浄土を願うという往相でもあり、誰かが私にお念仏を届けてくれたという還相でもあるのです。ご先祖やご両親やお坊さんや、あるいは書物や出来事など、あなたにお念仏を届けてくれた誰かや何かが還相の菩薩と言えるでしょうが、それはそのものがというよりは、やはり阿弥陀仏の本願力(衆生救済の力)を背景とするからこそそのように見出されるということではないでしょうか。
私が再び肉体を帯びてというのではなく、あなたが出会ったお念仏とあなたが一つになって還ってくるという理解はいかがでしょうか。その時に、お念仏を届けるためには多種多様な形となってはたらくことはもちろん想定されるでしょう。
現在の私の一視点ですから不勉強はお許し下さい。
極楽浄土の菩薩には神通力がある
本願により、極楽浄土の菩薩には神通力があるので、極楽以外の世界に瞬時に移動し、衆生を導く能力があります。
なので、成仏前の菩薩の段階でも衆生救済は可能でしょう。
観音菩薩や勢至菩薩も極楽浄土の菩薩ですからね。
菩薩も仏も肉体はあると思います。
三界(欲界・色界・無色界)という3種類の生命の在り方があり、仏や極楽浄土の菩薩は基本的に色界(煩悩に束縛されていないが肉体はある)だと思います。
あと、成仏した場合は、自分の浄土を構えることになるのかも知れません。
普通の阿羅漢と仏(ブッダ)の違いは、仏がいない世界で初めての阿羅漢となるのか、先輩の仏や阿羅漢から教わって阿羅漢となるかの違いがあるのではないでしょうか。
つまり成仏とは、お釈迦様のように、仏教のない世界で生え抜きの阿羅漢となってスーパー指導者兼スーパー救済者となることでしょう。
そのような成仏をする還相回向のパターンもあるのではないかと思います。
また、菩薩が極楽浄土に拠点を置いたままで他の世界にお出かけする形式の還相もあるのではないでしょうか。
両パターンがあるのではないかと、私は思います。