仏壇の前で祈願してもよいものでしょうか?回答受付中
かつて人生の一時期、真宗寺院(お東)での聞法会に御縁を頂いたものであります。その際、阿弥陀様や祖先にお願いごとをしてはいけない、という御教導を蒙りました。それから歳月は流れ、今も仏教を信じてはおりますが、真宗に関しては結局、帰敬式を受けることなく、いわば「ひとり仏教」の形であります。数年前、父を喪い、はじめて仏壇を購入しましたが、上記の御教導が強く脳裡に残り、父へも祖先へも仏さまへも願い事はするまい、と強くおのれを戒めております。でも正直なところ、老いゆく母に安らかな晩年を…と願う思いが日ましに強まっております。いったいどうしたらよいものでしょうか。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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阿弥陀さまはご承知なのです。これからも、頼って参りましょう。
いけないということではありませんよ。お願いをするというものではない、ということなのです。
似ているようで、ちょっと違いますね。
誰でも、こうであってほしいと願うものです。ですが、仏頼みをしても、それは私中心の欲でもあったと気付かされます。思い通りにしていくということに、心を揺らして苦しむよりも、囚われている私を見つめ直していくことで、生き方を優しくしていきましょう。
そして、ついつい、願ってしまう この私を、捨てずして救おうとはたらいてくださる阿弥陀さまのお心の深さに感謝のお念仏が出てまいります。
どうにもならんことに、もがくのが人間。それも、阿弥陀さまはご承知なのです。これからも、頼って参りましょう。
ついつい嘆いたり願ったりしてしまう あなたの姿のままでも、いいじゃないですか。私も年を重ねると、ますます阿弥陀さまのお慈悲に支えられ、救われていることを実感しています。
想いのままに、これからも仏様とともに。
宗派の前に世間では、仏教では
各宗派の言い方は杓子定規だったり言葉足らずだったりします。
世間のことは世間の道徳・常識程度で考えて大丈夫です。
願いには、良い願いと悪い願いがありそうだと、何となく分かります。
誰かを嫌って恨んで、その人が不幸になればいいと願うのは、世間でも仏教でもアウトです。
具体的な目標があって、そのために頑張るなら、自分も頑張るけど、仏様、ご先祖様も見守ってください、と応援を願うことは、世間でも仏教的にもありです。生きている人々も応援してくれます。受験勉強のとき、夜食を作ってくれたとか、テレビをつけずに静かにしていてくれたとか、当然、善行為です。
具体的なことは何もなくても、先に亡くなった人が新しい世界で元気であればいいなあと願うことは、世間的にも仏教的にも善いことです。朝、晩、仏壇に手を合わせるときに、そういう漠然とした、しかし一切衆生の幸福を願う気持ちを新たにすることは善いことです。
それよりも善いことは、今生きている自分たち同士がお互いなんとか頑張れればいいなあと、願うことです。具体的な手助けも善行為ですが、願いも心の善行為です。世間で励ましとか応援とかいう気持ちは、仏教的にも心の善行為です。
その特に大事な状況は、そろそろ老いて、死に向けて心構えをすべき人や自分に対して願うことです。もう新たに何かをすることは大変なので、これまでの人生でよく頑張ったと復習する意味で本人も喜びを新たにし、家族や周りの人は感謝を伝え、体はだんだん動かなくなるので支えてあげて、死や死後への不安は当然あるので、次も良いところに行って安楽に頑張ろうと励まして見送る感じで良い来世を願います。真宗では、次はお浄土でまた会いましょう、というアレです。
直接にも折に触れ伝え、仏壇の前でも、心の中で相手や一切衆生の幸福を願うと、心の善行為です。仏教全体としては、慈悲喜捨の四無量心のことです。日本語の言葉も、(宗)日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が作っています。
生きとし生けるものが幸せでありますように(慈)
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように(悲)
生きとし生けるものの願いごとがかなえられますように(喜)
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように(捨)
生きとし生けるものに自分も家族も含まれます。協会のホームページにもいろいろ載っています。
質問者からのお礼
中田三恵先生:
折からの法務御多忙のさなか、さっそくに滋味あふれるお返事を賜りましたこと、心より御礼申し上げます。阿弥陀さまが「ついつい嘆いたり願ったりしてしまう......姿のままでも」お受けとめ下さると伺い、安心して迷ってゆけそうです。本当にありがとうございます。
藤本晃先生:
該博な知識とおやさしさとに根ざした懇切なお返事、うれしく、ありがたく拝誦致しました。これからも私はついつい仏壇の前で願い事をしてしまいかねませんが、その際には、このたび先生から頂いたお言葉を基準にさせて頂く所存でございます。私こと嫌っている人間がいないわけではありませんが、そういう相手の不幸を念ずるようなことだけは決して致しません。スマナサーラ長老の慈悲喜捨の祈りのお言葉も大切に拝誦して参ります。この度は本当にありがとうございました。