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悟りを開きたいです

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これまで色んな人に愛されて何不自由ない環境で育ってきましたが、世の中又はこの現世に価値を見出だす事が出来ません。色々なものに興味を持とうとしたんですが、どうしても宗教的なものにしか興味を持つ事が出来ないので、悟りを開くしかないと思いました。人としての自分や周りの人達にも興味を持つ事が出来ません。この世に生まれたのには何かしらの理由があっての事だと思ってます。自分と価値観の合う人と出会った事がないので自分がよく分かりません。最近ではこの世が偽物の世界で本当の世界が別にあるんじゃないかとすら思ってしまいます。霊感があるか分かりませんが、周りの人達の悪い感情によく気がついて不安になります。どうやって生きていけばいいんでしょうか?分かりにくい文章ですいませんが回答お願いします😓

2020年6月7日 4:14

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず拠り所を問いましょう

こんにちは、初めまして。

文章を読み終わって私が思い浮かべたのは、お釈迦様の片腕として活躍されたお弟子・舎利弗(しゃりほつ:シャーリプトラ)の青年期のお話です。

まだ、在俗にあった頃、地元の村でお祭りがあったそうです。

多くの人が飲めや踊れの宴を繰り広げているところに、かの青年が佇(たたず)んでいました。そうして、思ったそうです「このように皆楽しそうにしているけれど、百年後にはこの場の誰も生きていないだろう」と。真に楽しむべきものはここにはない、と感じられて求道の人生を選択され、後にお釈迦様と出会うのでした。

あなたは「色々なものに興味を持とう」とされたけれど、結果「宗教的なものにしか興味を持つ事が出来ない」とのことですね。

かの舎利弗さんのように、皆が何の疑問も持たず楽しいことを追求していく、これとは一線を画した歩みをあなたは欲しているのだろうと思います。

本当に楽しむべき、拠り所を得て喜べるような道が仏教にはあるので、少しづつ自分のペースで求められていることが宜しいと思います。

ただ、その一方あなたは現実生活もあることと思います。
様々な人と付き合っていかねばならないでしょう。

なかでも、「周りの人達の悪い感情によく気がついて不安になります」という現実的な悩みもあるとのこと。

これは、あなたが人のことに配慮できる心の余裕の持ち主でもある、とも言えましょう。自分に余裕のない人は他者に気が回りません。

ただ、反面、あなたが他者を基準にして自分を評価してもらう、というスタンスでいるからこそ「不安」になるとも思います。他者それぞれの評価は、気分や考え方でその都度揺れ動きますから、自分の評価がどうなるかが常に「不安」にさらされるわけです。

ここまで考えると、あなたにとっての判断基準、拠り所は何であるのかが再び問題になります。その意味では、あなたの現実と仏教はつながっているのだと思います。

ここで、有名なお釈迦様の教え、「自灯明、法灯明」をお伝えします

自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい
他をたよりとしてはならない

法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい
他の教えを拠り所としてはならない

仏教を拠り所とした自分で今後歩めていったら良いですね。

ご参考になれば。
応援しています。

2020年6月7日 7:45
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有り難し
おきもち


釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...

質問者からのお礼

ありがとうございます。拠り所を探すところから始めたいと思います。

「悟りとは」問答一覧

悟りとは..............?

こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。 僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。 ※この方は禅宗の方です。 僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。 ですが、個人的には若干な手応えがあります。 これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。 だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。 この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。 ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」 「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。 仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。

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人間の悟り(覚り)とは

こんばんは。僕は仏教を学んでいる者(迷走中)です。 僕は真宗を中心としていままで学んできましたが、最近では曹洞宗や黄檗宗、臨済宗など禅宗にも興味を持っています。 そこで大きな疑問が湧きました。悟り(真宗では覚り)についてです。 悟りは超訳すると、「煩悩が消えて物事をあるがまま観ることができる境地(無分別智)」ですよね。 曹洞宗の道元禅師は、正法眼蔵に「唯仏与仏」という言葉を残していますが、意味は「悟りの境地は仏にしか分からず、人間には分からないものだ」と理解しています。 僕が間違っていなければですが、道元禅師は悟り(一体どんな意味の悟りなのか定かではありませんが)の境地に至った人だと理解しています。黄檗宗の隠元も悟ったと理解しています。 真宗では「煩悩具足」と言われ、「人間は煩悩そのもの。煩悩は消えない」という前提で説かれています。ですが、真宗でも「覚り」という表現をする。 人間には悟りを開けない。これは、結構理屈で考えても分かりますよね。煩悩は消えないし、誰でも人間の本性(自己中心性)は無くならない。 歴史上では、仏陀(ゴータマ)が悟りに到達したみたいですが、仏陀に関してはそもそも人間ではなく仏なので悟ることができたのではないかと思います。 ところが、人間である道元や隠元、良寛など悟りに到達した人物が存在するみたいです。 これはどういうことでしょうか?いわゆる「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」に到達したということですか? しかし、基本的には煩悩が消えた状態の悟りを目指すべきですよね。だからこそ、浄土系の仏教では死後の成仏に救いを求めるはずです。 仏教の目的とも言える「悟り」に到達できないという問題は、仏教の存在意義も問われる問題だと思います。 仏陀の悟りと禅宗や真宗などの悟り(覚り)とは、どう違うのか分かりやすく回答していただけると有難いです。

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悟りが得られないです

執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。

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この世に悟りなんてないのでは?

執着を捨てる事を前の質問で教わりました。 しかし、おそらくですがどんな人間もDNAレベルで執着を植え付けられていて仮に信じられないレベルのお坊さんが執着を捨てまくって生きてたとしてそれこそもはやお坊さんではなく飯もほとんど食べないホームレスかなんかではないでしょうか。 私は執着を捨てることで悟りを得るというのは懐疑的なのです。 まず考え方や解釈を変えても、火傷した皮膚に塩を塗られたら痛いし、知らない通り魔に家族全員殺されて解釈次第なんて思えないのです。 毎日の日々がここまで現在進行形で苦しくて色んなものを手放してて執着をなくしてるのに毎日皮膚に塩を塗られて幸福になれないし苦痛だ。 しかも、周りの人間は執着しまくって生まれつき色々なものを手に入れる。 ここまで地獄を見せられ全ての欲を減らして、普通に耐えられなくね? 次にこういう事を考えると坊さんに説法を色々教わりますが、それってつまり説法の理解する知性がないと一生悟ることはないのでは? 頭が悪く生まれて→間違いを犯して→説法されます。→また間違いをおかします。 つまり生まれつき(遺伝子的に)賢い人しか悟れない? また説法を知りまくったお坊さんこそが正しい生き方なのでしょうか? 仮に欲まみれのお坊さんがいたらそれが正解なの? やっぱり最近思うのは、この世に悟りなんて無くて苦しみは生まれつき分配される量が違って、執着を捨てる方法がなくただただ苦しみしかない世界ではないのでしょうか? おそらく、まともに悟りを目指して色々仏教勉強したり執着捨てるより、何も考えずに欲に執着して生きる美少女の方が幸福だろうしビルゲイツの息子に生まれるほうが幸福で不幸がないのではないか。 ここでの私の議題は、悟りはなく苦しみの量は生まれつき決まってるのではないか。 解脱こそがゴールならばそれこそこの世界からの抹消であり、抹消したくない者からしたら悟りなんてないのでは。 楽しく生きるならば、虐待されて死んだ子供はどう楽しく生きるのだろうか。 仮に人間界に生まれるのが解脱のチャンスならば、私が死んで輪廻を繰り返してその時に人間が絶滅してたら? 宇宙が生間ガスの関係で崩壊してたら? CERNのミニブラックホールで崩壊してたら? 悟りなんてないんじゃね? あるなら今すぐ誰でも幸福になれるはずだ。

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悟りを開くと、余計苦しみが増しませんか?

こんにちは。 色々と、仏教を学ばさせて頂いています。 ここの所、少し不思議に思うのですが、仏教の目指す境地は自他同一!との事。 自他の区別を無くして、他社の悩み苦しみもわが事のように受け止めるのが仏教者の理想との事。同事、とも言う言葉も知りました。 しかし、他人の苦しみもわが身の事として受け止めてしまうと、苦しみに押しつぶされるのではないでしょうか? テレビやラジオをつければ、やり切れないニュースが流れます。 児童虐待で子を殺した親、親に殺された子。 災害で一夜にして家族全員を失った者。 世界中で終わらない紛争に翻弄される人々。 もっとも、不幸な事だからニュースになるのでしょうが。 Happyな事は、滅多にニュースになりません。 悟りを開いた仏菩薩なら(実際に居るとして)、世界中のニュースを 居ながらにして知れるので、もうそれは大変な苦しみだと思います。 私自身「もうたくさんだ!」と言う思いでテレビやラジオを切ってしまう事もあります。 人の苦しみを受け止めきれずに、目をそむけてしまってます。 仏教者失格だな、と自分で思います。 悟りを開くと、心の安らぎが訪れると言いますが、逆に世界中の苦しみが我が身に降りかかる思いではないでしょうか? 悟った人、あるいはそれに近づいている人は、このような事実から目をそむけず、自分も苦しみに埋もれない為には、どのようにしているのでしょうか? 抽象的な質問ですいません。

有り難し有り難し 14
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