悟りや天国に優しさは必要ない?
仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。
酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。
(実家は浄土真宗です)
などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自分を忘じきる
優しさとはなんでしょうか。
歴代の祖師と呼ばれる悟りの方々は、法によって生かされているので、人の都合で物事を見ていません。だからこそ人間にとって都合の悪いこともいうのです。
真理とは人間にとって心地よいことばかりではないですから、怒ることも悲しいことも含めて受け入れる。ただそこを握らないことです。だからこそ人を赦すということができるのです。
優しさのなかに我慢があったり、本音と違う嘘があると苦しいでしょう。それは握っているからなのです。
それを手放した真理に安住して生きていることで、周囲の人を導きたくもなるのです。理屈でない働きをしている事実を示すことで、気づかせてあげたいと思うのでしょう。
そこの慈悲に気づけた人が救われるのです。心地よいことだけを求めていると、都合に流され、いつまでたっても救われないのですね。
仏教にも慈悲の視点はありますよ。
さらにいうなら、他者への優しさより自分の悟りに関心が高い存在は阿羅漢。
他者への布施や回向を優先されてるのが菩薩。
仏教の礼拝対象になってるのは菩薩です。
冷淡というのはあくまで、他者が感じる印象です。
わたしは冷淡というより他者より自身を大切にしてる人という視点を持っています。
イスラム教の教えも素晴らしいと思いますが、浄土真宗のお経、読んでみませんか。
他者を救わなきゃ一人前の如来と言えないから頑張るよと宣言している阿弥陀如来を冷淡と扱うのは、阿弥陀如来ちょっと可哀想。。
と思いました。
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三部経見てくださりありがとうございました。
浄土真宗十派で構成している真宗教団連合の憲章には目的として
世界平和の推進と人類永遠の福祉への貢献が謳ってあります。
ちょっとのお経で変わるほど世界は生優しくないですが、これ以上の悲しみが広がらないように私も地味ながら活動してます。
聖火さまの人生を陰ながら応援します
質問者からのお礼
質問の追記です。大切なのは何を伝えるかではなく、伝え方だと思います。イエス・キリストの「自分を低く控える者こそが最も偉い者である」というような言葉に習うならば、「この聡明な俺がバカなお前に教えを施してやろう」というような人が聡明だとは思いません。もし人を見下して傲慢な態度を取る者でも知識さえあれば偉大ならば、自分はイスラム教の方が合っているかもしれません
ありがとうございます。阿弥陀如来は、私は尊敬しています。私も阿弥陀如来のように、全てを救うお手伝いをしたいと思っています。浄土に生まれて阿弥陀如来の部下になって、浮かばれない魂などを救うお仕事ができたら、どれほどよいだろうといつも思っておりました。浄土三部経、素敵なお話ですよね。大好きです。
お坊さんの皆様も永遠に幸福でありますように