hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

解脱とはについて

回答数回答 2
有り難し有り難し 8

1. 解脱=悟り=涅槃ですか?
2. 解脱とは実際にあることですか?なにか架空のことではないですか?

解脱がなにかわかっているわけでもなく、質問しています。

インターネットや本で調べたほうがよい内容ですが、よくわかりませんでした。

2024年2月19日 14:09

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りによって輪廻から解脱し涅槃に

浄土宗大辞典ウェブ版より「解脱」http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A7%A3%E8%84%B1
をご覧いただき、その後に「涅槃」もご覧ください。
仏法に帰するとは涅槃に帰することだという記載もあります。
つまり、解脱や涅槃を信じることが仏教信仰(仏・仏法・僧の三宝に帰依する)の重要な要素なのです。
戒(生活習慣)・禅定(精神集中)・智慧(現象を観察して真理を悟る)の修行の結果悟りの智慧を得る。
智慧で煩悩が消えることで、輪廻転生から解脱(生き物であることから卒業)でき、涅槃に入ることができる。
その一連の流れを信じることが、仏教信仰の重要な要素なのです。
「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」つまり「解脱や涅槃こそが究極の平安である」と理解して信じ、解脱をするために悟りを目指して修行するのが仏道の基本です。
経典には、お釈迦様やそのお弟子さん達が悟りを得られ、涅槃に入られたことが記述されています。
信じるか信じないかはあなた次第。
追記
 輪廻転生はあるのか?輪廻転生の原因は煩悩で、悟ったら煩悩がなくなり輪廻から解脱できる(涅槃に入れる)ののか?
 このあたりは信仰や思想の問題であり、信じるか信じないか、信じたいかは、人それぞれだと思います。
 

2024年2月20日 5:44
{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

解脱とは

追記・・

再質問「解脱しても悟り=涅槃に至らなかったら、その人が死んだら悟ってない状態でただ消滅するということですか?」についてですが、

解脱した存在は、業が清らかとなっており、迷い苦しむ存在には生まれる因縁を断っているものの、悟りへと至るまで敢えて輪廻世界に留まり、衆生済度(救済)に努められることもありますが、兜率天などの天部、極楽など他の浄土で修行に励まれる場合もあります。

また、無余涅槃に入り、心身共に滅した境地に入ることもあるとはされますが、そのためには、いずれにしても悟り、涅槃へと至らないといけないものとなります。

いずれにしましても、悪い業の果報が尽きるまでは、輪廻に留まることになってしまうとお考え頂けましたらと存じます。

マツさま

解脱とは、解き脱するとあるように、縛り付けられているものから開放されるということであります。

では、私たちをそのように縛り付けているものは何かと言いますと、「輪廻の牢獄」となります。

輪廻とは、迷い苦しみの世界に転生、生まれ続けることであります。

仏教では、輪廻の世界は六道として、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄と分類されますが、そのような境涯として実際に生まれる場合と、そのような境涯における苦しみを受けるという意味合いもあります。人として生まれても、修羅や餓鬼、畜生の受けるような苦しみを受けることもあるということです。

輪廻に生まれ続ける原因は、無明・煩悩による(悪)業によっての因縁であります。

解脱とは、輪廻に生まれ続ける原因である業を、仏道修行、六波羅蜜により、まとめると智慧の開発と功徳の集積の力によって浄らかとして、輪廻の原因を断つことができた段階となります。

専門的には、煩悩障を断じた状態となります。

阿羅漢果、菩薩の八地(十の境地の内の八)に到達した段階となりますが、まだ、解脱しただけの段階は、悟り、涅槃に至ったというわけにはなりません。

悟り、涅槃へと至るには、無明による習気である所知障を断滅させることが必要となります。

解脱した段階は、既に輪廻に生まれて苦しむ存在ではありませんが、まだ、悟り・涅槃へと至るには邪魔になっているものがあるという感じであります。次に、その邪魔となっている所知障を断滅することで、ようやく成仏になるということであります。

合掌

2024年2月23日 10:55
{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

解脱しても悟り=涅槃に至らなかったら、その人が死んだら悟ってない状態でただ消滅するということですか?

天部では悟りを開くことはできず修行できない(だから人間に生まれたことは修行できるチャンスだ)とどこかで読んだ気がしたのですが、記憶違いだったのかもしれません。
悪い業の果報が尽きるまでは、輪廻に留まることになることはさすがに読んでわかりました。また、何かで読んで知っておりました。
理屈を理解するだけでもなかなか難しいですね。
あまりよくわかっていないですが、混乱してきましたので、これぐらいにしておきます。
別質問をまたさせていただくこともあるかと思います。
大変ありがとうございました。

「悟りとは」問答一覧

悟り体験と仏教との関わりについて

こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

悟りや天国に優しさは必要ない?

仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。 酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。 (実家は浄土真宗です) などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。

有り難し有り難し 20
回答数回答 2

悟ると諦めるの違いは何か。

質問失礼いたします。 行く先先で虐待、人間関係、ブラック企業と色々ご縁が続く私でございます。 代わらず嫌な出来事は多く目の前にあり、 夕飯の支度をしながら 疲れたな、死んでやろうか。 などと思うこともありますが、 まあそれも無駄だな、と思いながらなんとかストレス回避をしながら楽しみをみつけて毎日過ごしています。 過去のトラウマはだいぶ歳のせいか痛みを覚えてくる事は減り、まるで他人の事のようになってはいますが、周りを助ける経験や知識として生かす事が出来るようになってきています。 そんな最近の趣味が、 人と議論することや、 思考実験的な小説を書く事なのですが、 仏門を題材に小説を書きたく思い、 悟りと諦め、 または悟りとは何なのか、が気になっているのですが、説法頂くことは可能でしょうか? 仏門が目指すところは、 楽しく生きて死ぬための基本的な知恵だと思っています。 本を読んだりしてはいるのですが、 お恥ずかしながら、今回書こうとしているのは家が寺の為そのまま住職を引き継ぎ、 まだ自分の目指すものの先が見えず悟りとは何かと悩むおそらく浄土真宗の僧侶の話です。 (浄土で救われるなら、生きて頑張る必要はないのでは?ととんだ浅はかな考えを持っている、若い住職です。) 寺を訪れにくる人たちの過去の虐待経験や家庭の問題を受け身で聴き、俗世を憂う話です。 お坊様達は、痛みだらけの世の中をどうかんがえていますか? 痛みばかりでも、人生捨てたもんじゃない、と思いますか? できれば、このような経験を自分がした事がある、というお坊様のお話もきければと思います。 過去の事は過去、自分も他人も許し前を向く、というようなことをしてみても、やはり古傷はいたいです。 悩みではなく質問になってしまい申し訳ありません。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 30
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ