悟りとは何でしょうか。
悟りとは何でしょうか。物事に執着せず感情の起伏が平坦で、何が起きても受け流し、いつ死んでも問題ないような状態が悟りなのであれば、うつは悟りなのでしょうか。正直、うつの状態はつらいだけなので、こんなのが悟りなら悟らない方がずっと幸せだと思います。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お釈迦様は鬱ではありません。鬱と悟りとは別物です。
お釈迦様は鬱だったのでしょうか?ちがいますよね。
健全で苦しみがない。聡明で穏やか。自由で安らか。鬱とは程遠い状態です。
だからといって、ああ、鬱はやっぱりいけないんだァなどと思わないことです。
そういう風な思い方が自分を苦しめる作用になっているからです。
人はおおよそ「わたし=我=マイルール」を先立てている。そこに気づかない。先立てている優先案件があるから、現実がいざ思い通り、願い通りにならないと嫌な気持ちになるのです。その嫌な気持ちということの本質だって抗い、抵抗、反発だと知るべきでしょう。
坐禅して自分の心の鏡、鏡に映し出されているもののありようをよく見つめてみると、かならず抗いの心理が生じている瞬間がある。抵抗、反発、イライラ、ネガティブ心理とは、自分ルールに当てはめた上での延長線上の行為なのです。最初に無自覚ながら先立っているアタシ案件、自分案件があるのです。多くの人々は、まさか自分がその先立っている自分自分した意識がベースにあって、それを主軸に物事を観ているとは気づきにくいものなのです。だから、鬱もサトリも同じだろうと混同したり、誤解して思ってしまう。
悟りというのはなにか。
我々人間特有の先立つしゃしゃり出ている自分自分した心理、その自我、エゴ、マイルールを優先する思考を「第一に選択しない」という態度にあってはじめて実現が可能になるのです。
難しいことではありません。
たとえば力を抜くということだって、自分が力を抜こう抜こうとしても力は抜けない。ところが手を強く握ったり、敢えて緊張をさせれば力はすぐに抜けます。
そうして力の抜けた状態でこの身心をみつめて、この身心に触れるモノコトとの接点を良く見つめると、自分の思い込みや思い方、好き嫌いがないままにモノコトを授かっているさまがあるはずです。
今日の天気や体調だって、内側から出てくる思いだって、自分の意思とは無関係にあらわれているものなのです。こんなこと考えたくないなぁと思ったって、最初の時点ではそれが勝手に知らずに沸いてくる。
うちも外も同じです。この世の一切の現象・事象がそもそもアタシ、私、自分とは無縁にそのようにあらわれているはずです。まず、そこの立ち位置を見失ってはいけません。そうしてしゃしゃり出る私を持ち込まずに過ごしていると、出会う物事との間に私的な是非善悪が滅して安楽になるのです。
質問者からのお礼
早朝からご対応いただきまして、ありがとうございます。難しくてよくわかりませんでしたが、考えてみます。