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悟りとは何でしょうか。

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悟りとは何でしょうか。物事に執着せず感情の起伏が平坦で、何が起きても受け流し、いつ死んでも問題ないような状態が悟りなのであれば、うつは悟りなのでしょうか。正直、うつの状態はつらいだけなので、こんなのが悟りなら悟らない方がずっと幸せだと思います。

2024年11月26日 22:21

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お釈迦様は鬱ではありません。鬱と悟りとは別物です。

お釈迦様は鬱だったのでしょうか?ちがいますよね。
健全で苦しみがない。聡明で穏やか。自由で安らか。鬱とは程遠い状態です。
だからといって、ああ、鬱はやっぱりいけないんだァなどと思わないことです。
そういう風な思い方が自分を苦しめる作用になっているからです。
人はおおよそ「わたし=我=マイルール」を先立てている。そこに気づかない。先立てている優先案件があるから、現実がいざ思い通り、願い通りにならないと嫌な気持ちになるのです。その嫌な気持ちということの本質だって抗い、抵抗、反発だと知るべきでしょう。
坐禅して自分の心の鏡、鏡に映し出されているもののありようをよく見つめてみると、かならず抗いの心理が生じている瞬間がある。抵抗、反発、イライラ、ネガティブ心理とは、自分ルールに当てはめた上での延長線上の行為なのです。最初に無自覚ながら先立っているアタシ案件、自分案件があるのです。多くの人々は、まさか自分がその先立っている自分自分した意識がベースにあって、それを主軸に物事を観ているとは気づきにくいものなのです。だから、鬱もサトリも同じだろうと混同したり、誤解して思ってしまう。
悟りというのはなにか。
我々人間特有の先立つしゃしゃり出ている自分自分した心理、その自我、エゴ、マイルールを優先する思考を「第一に選択しない」という態度にあってはじめて実現が可能になるのです。
難しいことではありません。
たとえば力を抜くということだって、自分が力を抜こう抜こうとしても力は抜けない。ところが手を強く握ったり、敢えて緊張をさせれば力はすぐに抜けます。
そうして力の抜けた状態でこの身心をみつめて、この身心に触れるモノコトとの接点を良く見つめると、自分の思い込みや思い方、好き嫌いがないままにモノコトを授かっているさまがあるはずです。
今日の天気や体調だって、内側から出てくる思いだって、自分の意思とは無関係にあらわれているものなのです。こんなこと考えたくないなぁと思ったって、最初の時点ではそれが勝手に知らずに沸いてくる。
うちも外も同じです。この世の一切の現象・事象がそもそもアタシ、私、自分とは無縁にそのようにあらわれているはずです。まず、そこの立ち位置を見失ってはいけません。そうしてしゃしゃり出る私を持ち込まずに過ごしていると、出会う物事との間に私的な是非善悪が滅して安楽になるのです。

2024年11月27日 0:40
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早朝からご対応いただきまして、ありがとうございます。難しくてよくわかりませんでしたが、考えてみます。

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