質問失礼いたします。 行く先先で虐待、人間関係、ブラック企業と色々ご縁が続く私でございます。 代わらず嫌な出来事は多く目の前にあり、 夕飯の支度をしながら 疲れたな、死んでやろうか。 などと思うこともありますが、 まあそれも無駄だな、と思いながらなんとかストレス回避をしながら楽しみをみつけて毎日過ごしています。 過去のトラウマはだいぶ歳のせいか痛みを覚えてくる事は減り、まるで他人の事のようになってはいますが、周りを助ける経験や知識として生かす事が出来るようになってきています。 そんな最近の趣味が、 人と議論することや、 思考実験的な小説を書く事なのですが、 仏門を題材に小説を書きたく思い、 悟りと諦め、 または悟りとは何なのか、が気になっているのですが、説法頂くことは可能でしょうか? 仏門が目指すところは、 楽しく生きて死ぬための基本的な知恵だと思っています。 本を読んだりしてはいるのですが、 お恥ずかしながら、今回書こうとしているのは家が寺の為そのまま住職を引き継ぎ、 まだ自分の目指すものの先が見えず悟りとは何かと悩むおそらく浄土真宗の僧侶の話です。 (浄土で救われるなら、生きて頑張る必要はないのでは?ととんだ浅はかな考えを持っている、若い住職です。) 寺を訪れにくる人たちの過去の虐待経験や家庭の問題を受け身で聴き、俗世を憂う話です。 お坊様達は、痛みだらけの世の中をどうかんがえていますか? 痛みばかりでも、人生捨てたもんじゃない、と思いますか? できれば、このような経験を自分がした事がある、というお坊様のお話もきければと思います。 過去の事は過去、自分も他人も許し前を向く、というようなことをしてみても、やはり古傷はいたいです。 悩みではなく質問になってしまい申し訳ありません。 宜しくお願い致します。
以前自身の周辺環境の事を憂いてご相談させて頂きました。 父からの性的虐待や盗撮、 塾教師にされた暴行。 それに伴うメンタルの上下の事などです。 黙する事を決め、未だ家族には言っていません。 離婚した父をずっと恨み仕返しをしようと常に何かを考えている母とは少し距離を置き、 父を赦し自分は誰も恨まず、 過去は終わっていてもう今とは関係ないから大丈夫、 仏様は見ているし良い事をして自分が良くなる事に努めればいい、 と、一時期良い方向に物事を考えられるようになりました。 ブラック企業に未だ在籍、あい変わらず園長は理解できないですが、頑張って続けています。 今年度は信頼できる先生と組む事ができ静かに保育を学んでいます。 ふいに、自身の生育環境のアレや子どもに寄り添えない気持ちを相談したくなりますが、話してはいません。 話したところで事実は変わらず、自分の保育の姿勢への正当化にもならないからです。 自分が子どもが苦手であるという情報は、保育士には不利な情報であり、誰にも理解されないとも思っています。 諦めがついた、 怒りを隠せるようになったのか、 子どもに対しての姿勢は穏やかになれましたが、 未だ、やはり子どもが苦手であり、話しているだけ、接しているだけで心身ともに痛みを感じることが毎日のようにあります。 一時期体調を崩した際 独り言が出ていたのですが、 「なんで?どうして。」「助けて。」 という、自分の今までの何かや周りに対する疑問が出ている事が多かったのですが、 最近は 「痛い痛い」とひたすら不調を訴えるものに変わりました。 いずれ生き物である限り、人は皆無事死ぬし、浄土で救われる。 と思っているのですが、 最近の自分の心情は、 恨んだところで、怒ったところで何も変わらない、静かにしていれば、人に優しく穏やかにしていれば大丈夫、と思いながら、 心身ともに不調が続き、どこもかしこも痛みがあります。 子どもが光であるとも思えず、抱きついて私を刺してくる針のように感じ、また、子供を尊く思う保護者や教育者の心情にも寄り添えません。 子供が欲しい気持ちもなく理解ができず、孤独を感じます。 欲しくないとも言えません。 絶望のような、どこにも行けず、生きている限り地獄である、と思うような事もあります。 諦めと悟りの違い、どうすれば穏やかに過ごせるか、お力添えを宜しくお願い致します。
悟りについて教えて下さい。 心を鍛える事が悟りなのか? 心を成長させる事なのか? 自分に起きる事を受け入れ、行動する事なのか? 心に湧いてくる色々な感情がわかないように、セルフコントロールする事でしょうか? どのような意味なんでしょうか? 自分でも色々調べてみましたが、調べれば調べる程、深いものだと感じますし、よくわからなくなっていきます。 一言で分かりやすく伝える事は難しいと思いますが、是非教えて下さい。 また、トレーニング方法があれば教えて頂きたいです。 宜しくお願い致します。
近頃、さっぱりと欲が無くなってしまいました。 食欲がありません。食べてたまに吐き戻しています。 眠れません。薬を飲んで寝ています。 性欲はもとから少ないです。でも、人の温度は好きでした。今はなくても平気です。 買い物が好きでした。今は欲しいものがありません。 行きたいところが沢山ありました。今は近所のスーパーがやっとです。 未来にいっぱい、「欲しい」「やりたい」「こうなりたい」がありました。 自分一人の力でどうにかなるものは手に入れました。(アクセサリーなど) 自分一人の力ではどうにかできないものは諦めました。(友達、家庭など) ちょっと前までは悲しくて、不安で、仕方なかったんです。安定や、優しさがほしくてたまらなかった。 長い間いっぱい努力しました。でも手に入らないんだって気付いて、そうしたら憑き物が落ちたように、心が穏やか?になりました。 今は、人に迷惑をできるだけかけず、死ぬ準備を進めています。 世の中の全てが愛らしく感じます。私に縁が無かっただけで、素晴らしいものが沢山あると、本気で思っています。 これは悟りに近い感情なんでしょうか? それとも、薬の飲み過ぎで、頭がおかしくなってしまっているんでしょうか?
こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。 僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。 ※この方は禅宗の方です。 僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。 ですが、個人的には若干な手応えがあります。 これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。 だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。 この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。 ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」 「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。 仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。
こんばんは。僕は仏教を学んでいる者(迷走中)です。 僕は真宗を中心としていままで学んできましたが、最近では曹洞宗や黄檗宗、臨済宗など禅宗にも興味を持っています。 そこで大きな疑問が湧きました。悟り(真宗では覚り)についてです。 悟りは超訳すると、「煩悩が消えて物事をあるがまま観ることができる境地(無分別智)」ですよね。 曹洞宗の道元禅師は、正法眼蔵に「唯仏与仏」という言葉を残していますが、意味は「悟りの境地は仏にしか分からず、人間には分からないものだ」と理解しています。 僕が間違っていなければですが、道元禅師は悟り(一体どんな意味の悟りなのか定かではありませんが)の境地に至った人だと理解しています。黄檗宗の隠元も悟ったと理解しています。 真宗では「煩悩具足」と言われ、「人間は煩悩そのもの。煩悩は消えない」という前提で説かれています。ですが、真宗でも「覚り」という表現をする。 人間には悟りを開けない。これは、結構理屈で考えても分かりますよね。煩悩は消えないし、誰でも人間の本性(自己中心性)は無くならない。 歴史上では、仏陀(ゴータマ)が悟りに到達したみたいですが、仏陀に関してはそもそも人間ではなく仏なので悟ることができたのではないかと思います。 ところが、人間である道元や隠元、良寛など悟りに到達した人物が存在するみたいです。 これはどういうことでしょうか?いわゆる「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」に到達したということですか? しかし、基本的には煩悩が消えた状態の悟りを目指すべきですよね。だからこそ、浄土系の仏教では死後の成仏に救いを求めるはずです。 仏教の目的とも言える「悟り」に到達できないという問題は、仏教の存在意義も問われる問題だと思います。 仏陀の悟りと禅宗や真宗などの悟り(覚り)とは、どう違うのか分かりやすく回答していただけると有難いです。
これまで色んな人に愛されて何不自由ない環境で育ってきましたが、世の中又はこの現世に価値を見出だす事が出来ません。色々なものに興味を持とうとしたんですが、どうしても宗教的なものにしか興味を持つ事が出来ないので、悟りを開くしかないと思いました。人としての自分や周りの人達にも興味を持つ事が出来ません。この世に生まれたのには何かしらの理由があっての事だと思ってます。自分と価値観の合う人と出会った事がないので自分がよく分かりません。最近ではこの世が偽物の世界で本当の世界が別にあるんじゃないかとすら思ってしまいます。霊感があるか分かりませんが、周りの人達の悪い感情によく気がついて不安になります。どうやって生きていけばいいんでしょうか?分かりにくい文章ですいませんが回答お願いします😓
昔、道を求めて様々な人と話をしました。 とある尼僧は『お坊さんでも悟っていない人もいる。一般人でも悟っている人がいる。しかしそれは2-3年程度。2-3年したら元の人間に戻る』とおっしゃっていました。これは本当ですか?一般人でも悟れるのですか? とある行者は『あらゆる修行をしまくったが最も自己を成長させてくれたのは利他(ボランティア活動)だった。利他こそが修行である』『滝に打たれるのも激しい修行をするのも自分の為にするなら自己満足に過ぎなかった』と言っていました。 お坊さんとしての修行をしなくても利他をし続ければ悟りへ近づけるのでしょうか? 私事ですが、事情があって出家は出来ませんし、家でもできる坐禅や瞑想はとても苦手なんです。何度かチャレンジしましたが向いていないと感じています。 しかし、そうであっても(坐禅・瞑想が出来なくても)利他行だけで悟りに至れるのか気になって質問させていただきました。色々なお坊様の御意見をお伺いしたいです。よろしくお願い致します。
悟ってる人はどんな人なのか知りたいです。 よろしくお願いします。
死者は葬式でお坊さんによって、成仏しますよね?所謂、死んで仏になる、解脱するんですよね? それと、 お坊さんが悟りを開いて輪廻転生を解脱する。 この違いはなんでしょうか? 葬式による、成仏では、輪廻転生は解脱出来ないのでしょうか?
悟りというものは例えば電車に乗っているときにお年寄りに席を譲る。すると喜ばれる。「ああ、こういうことをするといいんだな」と思う。 こういうのが悟りなのでしょうか? 何も本に書いていることだけじゃなくて、「日常の中でこうすると人はこうなる」という事を知るというのが悟りなのでしょうか?
執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。
執着を捨てる事を前の質問で教わりました。 しかし、おそらくですがどんな人間もDNAレベルで執着を植え付けられていて仮に信じられないレベルのお坊さんが執着を捨てまくって生きてたとしてそれこそもはやお坊さんではなく飯もほとんど食べないホームレスかなんかではないでしょうか。 私は執着を捨てることで悟りを得るというのは懐疑的なのです。 まず考え方や解釈を変えても、火傷した皮膚に塩を塗られたら痛いし、知らない通り魔に家族全員殺されて解釈次第なんて思えないのです。 毎日の日々がここまで現在進行形で苦しくて色んなものを手放してて執着をなくしてるのに毎日皮膚に塩を塗られて幸福になれないし苦痛だ。 しかも、周りの人間は執着しまくって生まれつき色々なものを手に入れる。 ここまで地獄を見せられ全ての欲を減らして、普通に耐えられなくね? 次にこういう事を考えると坊さんに説法を色々教わりますが、それってつまり説法の理解する知性がないと一生悟ることはないのでは? 頭が悪く生まれて→間違いを犯して→説法されます。→また間違いをおかします。 つまり生まれつき(遺伝子的に)賢い人しか悟れない? また説法を知りまくったお坊さんこそが正しい生き方なのでしょうか? 仮に欲まみれのお坊さんがいたらそれが正解なの? やっぱり最近思うのは、この世に悟りなんて無くて苦しみは生まれつき分配される量が違って、執着を捨てる方法がなくただただ苦しみしかない世界ではないのでしょうか? おそらく、まともに悟りを目指して色々仏教勉強したり執着捨てるより、何も考えずに欲に執着して生きる美少女の方が幸福だろうしビルゲイツの息子に生まれるほうが幸福で不幸がないのではないか。 ここでの私の議題は、悟りはなく苦しみの量は生まれつき決まってるのではないか。 解脱こそがゴールならばそれこそこの世界からの抹消であり、抹消したくない者からしたら悟りなんてないのでは。 楽しく生きるならば、虐待されて死んだ子供はどう楽しく生きるのだろうか。 仮に人間界に生まれるのが解脱のチャンスならば、私が死んで輪廻を繰り返してその時に人間が絶滅してたら? 宇宙が生間ガスの関係で崩壊してたら? CERNのミニブラックホールで崩壊してたら? 悟りなんてないんじゃね? あるなら今すぐ誰でも幸福になれるはずだ。
本当に悟っているという状態はどのようなものなのでしょうか? 最近亡くなっている方の声がわかったり、その方の前世がわかったりすることがあります。 そして自分の前世もわかったりするのですが、その中にお釈迦様という人がいるそうなのです。 その方が言うには、このように前世や亡くなった方の声が聞こえることを悟りと言うらしく。 お坊さんは亡くなった方の言葉を伝えるためにお葬式をしているのでしょうか? 残念ながら僕は今までそういうお坊さんと出会った事がありません。 成仏していないのに葬式が終わったり、成仏しているのに何度も法事をしたり、それは何の意味があるのか僕には理解出来ません。 この声が聞こえるというのは僕の想像が作り出しているのでしょうか? それとも本当の声なのでしょうか? 悟りの状態がわかるお坊さんは今日本にいますか? 是非お話ししてみたいのでご紹介下さい。
こんにちは。 色々と、仏教を学ばさせて頂いています。 ここの所、少し不思議に思うのですが、仏教の目指す境地は自他同一!との事。 自他の区別を無くして、他社の悩み苦しみもわが事のように受け止めるのが仏教者の理想との事。同事、とも言う言葉も知りました。 しかし、他人の苦しみもわが身の事として受け止めてしまうと、苦しみに押しつぶされるのではないでしょうか? テレビやラジオをつければ、やり切れないニュースが流れます。 児童虐待で子を殺した親、親に殺された子。 災害で一夜にして家族全員を失った者。 世界中で終わらない紛争に翻弄される人々。 もっとも、不幸な事だからニュースになるのでしょうが。 Happyな事は、滅多にニュースになりません。 悟りを開いた仏菩薩なら(実際に居るとして)、世界中のニュースを 居ながらにして知れるので、もうそれは大変な苦しみだと思います。 私自身「もうたくさんだ!」と言う思いでテレビやラジオを切ってしまう事もあります。 人の苦しみを受け止めきれずに、目をそむけてしまってます。 仏教者失格だな、と自分で思います。 悟りを開くと、心の安らぎが訪れると言いますが、逆に世界中の苦しみが我が身に降りかかる思いではないでしょうか? 悟った人、あるいはそれに近づいている人は、このような事実から目をそむけず、自分も苦しみに埋もれない為には、どのようにしているのでしょうか? 抽象的な質問ですいません。
日々、イヤなことや、予期せぬことが起こり、怒りやら不安やらに苛まれています。 人間関係が特に多いです。 悟ったら、それらの苦しみから解放されますでしょうか? どうしたら、悟れますか? とりあえず、誰かのために御念仏を唱えてみたりしようと思っていますが、正しいでしょうか?
悟りとは何ですか? 本当にあるんですか?証明できますか? なんで釈迦の時代以降ずっと悟った人が出ていないんですか? ずっと悟った人が出ていないのは伝わった修行法に欠陥があったためとは考えませんか? 悟りはキリスト教の死後の世界のような鼻先に吊るされた架空の餌ですか? なぜ悟ってないのに人に指導するのですか?知らないことを人に教えるのは間違いを産む原因を作ってると思いませんか?まずは確実に悟ってから人に教えた方がいいのでは?
深刻な問題ではなく気になっている程度なのですが、質問をよろしくお願い致します。 仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか? 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。 病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。 その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。 簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。 実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており、少々物足りない感じを受けます。 もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。 仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。 まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。 悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として) これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。 しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
私くしも、仕事の事などで 自分自身の芯をしっかりもてなくて、常に気持ちがグラグラに揺らぐので 瀧行に真剣に行きたいと思ってはいるんですが お坊様方が、行の中で 仏様の存在や何か悟られた事など ございましたら 教えて頂きたいです。瀧は心身共に清められ仏様と一体になれる様に思うので すが 、、、
なぜ、私たちは生まれてくるのでしょうか。なぜ、生と死が一つのものだと分からないのでしょうか。 なぜ生まれたら苦しみがあるのに、生きる楽しみに浸ってしまうのか。執着とは、罠のようなものなのでしょうか。 なぜ私たちは生まれてきた理由を知らないのでしょうか。なぜ浄土や輪廻があるか否かを知るすべを持っていないのでしょうか。 どうしてこの心は、真理とは違う方向に向かってしまうのでしょうか。私たちは生きているうちに悟ることができないのでしょうか。 自分が愚かだと僅かに気が付いても、未だに愚かなのはなぜなのでしょうか。
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