他人にも自分にも批判してしまう癖
学生の時にいじめや鬱病などの経験もあり、
すごく生きにくく感じていてここに相談させてもらうことにしました。
学生の時、友達からいじられて否定されたり、自分の意見を馬鹿にされたり、
親の言うことと違うことをしたら怒られて、
自分の意見は受け入れてもらえなかったり、、
それで他人は私のことをジャッジとか批判してくるんだ!
って思って生きてきたのですが、、
いつの間にか私も、他人も自分のこともすぐ心の中で批判してしまう人生になってしまっていました。
人が笑ってたら自分のことで笑われてるのかなとか、
こう行動したらあの人に批判されるだろうなとか、
逆に他人がちょっと行動が遅かったら自分と違う考えの行動をしたらイラッとしてしまったり、
逆のことを自分がしてしまったらちょっとした事なのに悪く思われたかなと落ち込んだり、、
知らない人のことまで容姿や態度など批判してしまって悪いところを見つけるようになってしまいました。
周りの目がすごく気になるし、自分も周りのことをすごく見てしまいます。
自分は見ないようにとか、相手の事を批判しないようにと思うのですが、
相手が批判してくるのなら私も批判してやろうという思いなどがおさまりません、、
でも、批判してきたのは学生の時の友達や親やごく少数の人だということも分かっています、、
どう思考を変えていけば生きやすくなるのでしょうか、、
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏様の目線で言うと比較は悲しく・愚かな事という視点を持つ。
いじめの経験というのは辛いものですよね。また親との関係も生きづらさにつながっているかもしれませんね。
自分が人といつも比べてしまい、人を批判している、そういう認知の癖があると気づかれたわけですよね。それ自体がすごい事だと思います。そう気付くというのが何よりも大事なことだと感じます。認知の癖による生きづらさだと思います、認知の癖を変えていく事が助けになるかもしれません。
ジャッジの根底には、この世の良し悪しの価値観がありますよね。仏教はそういった基準を相対化します。世間の善悪は社会が決めた価値観。聖徳太子も仏教者でした。彼は幼くして権力争いに巻き込まれ大変苦しみました。だからこそ、真実を説く仏教に帰依したのです「世間虚仮、唯仏是真」(世間は空しく偽りだ、仏だけが真実)という言葉を残しています。どんな批判されようが、それは空しく偽りの仮の世間の価値基準だ。真実を本来大事にするべきという言葉です。
親鸞という僧は歎異鈔という書物で「善悪の事は私には分からない。なぜなら仏の様に真実が分かるなら、善悪も分かろう。しかし愚かな人間(私)に仏の様に善悪がわかるだろうか?真実を聞きなさい」と言います。私達の世界は自分の都合の良いものを追い求め、都合の悪い物を取り除く事が中心になっています。味方や敵として決めつける事になります。しかし、仏に出遇う時決めつけや思い込みから解放されるのです。仏との出遇いから周りの存在が尊敬すべき人として見出されるます。都合の悪い存在も本当は仏なんですよね。そう浄土真宗では考えます。
世の中には思い通りになる事と思い通りにならない事があります。思い通りにならない事は思い通りにしなくていいというのが仏教の教えです。思い通りにならない事を思い通りにしようとして人間は苦しむのです。思い通りにならない部分は放っておきましょう。
頑張ったことを誇ったり・自慢するのではなく、頑張れている事に感謝できる人になること。思い通りにならない世界で、頑張れていることがそもそも当たり前ではない、その事に感謝することの出来る人に成ることの方がよほど価値があるのではないでしょうか?
《追記》私達は比較せずには生きられません…。しかし本来比較を超えて尊い命です。仏様の目から見れば比べてばかりいることは悲しく愚かな事です…。そういう視点を持つことは助けに成るかもしれません。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
気づくということがまず大切という言葉がすごく響きました。
認知行動療法や、最近仏教にも興味を持ち始めました。
これからは自分から行動して頑張ってみようと思います。
思い通りになること、ならないこと、もう少し冷静に考えてみようと思いました。
色々沢山のお言葉をいただき本当に励みになりました、、
何回も何回も読み返して自分と見つめあって生きていこうと思います。
本当にありがとうございます。