友人たちへの最後の言葉はどうすれば?
学生時代にお世話になった友人達に残したい遺言は、どのように記せば良いでしょうか?
今までありがとうという言葉と、過去に私の精神的未熟さが原因でさんざん迷惑をかけてしまって申し訳ないという二点を伝えたいです。
しかし既に嫌われている可能性も十分あるので、もしかしたら受け取ってもらえないかもしれません。その場合、手紙ではなくメールやラインなどで伝える方が物として残らず良いのでしょうか?
ただ、自死を止めてほしいのではなく、単純に今までの謝罪をしたいだけなので、万が一大事になってしまっても…と思い、上手い文章が思い付きません。
皆様どのようにされていますか?よろしくお願いいたします。そもそも遺言なんて遺そうとする方が頭がおかしいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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遺言とは
遺言で思い出す事は、自分の祖父のことです。末期がんでありながら、あの世に行く3ヶ月くらい前まで、寺の仕事をしていました。葬儀があれば自分も棺桶に片足突っ込んでいるような状況でも、何とか檀家さんに支えられながら供養に行き、法事があれば途中でお経が飛んでしまっても、自分がやらねばという気概で最後までお勤めをしていた記憶があります。
その祖父が今際の際(死の直前)に自分達に向かって「お前たち、頼むな、寺のことを頼むな、信者さんのことを頼むな」と仕切りに言っていたことを思い出します。当時の自分はまだ若く、その意味を咀嚼するだけの能力がなかったのですが。今考えれば、あれこそ遺言だと思うのです。
恐らく遺言とは、自分の死に際して、もうどうすることも出来ない、何もしてやることができない、他者に対しての慈しみの心を、後進に託す行為なのでしょう。これは他者の幸せを遠くから祈るだけの存在になるようなもの、例えば、年老いた自分ではもう美味しく食べることができなくなった食べ物を、子供達に「自分の代わりに食べとくれ」といって、子供が美味しそうに食べている姿を目を細めながら見守る老人の心のようなものなのだと思います。
すいません、ものすごい心の葛藤があり、悩み多き中で質問をされたのに、まったく解決にならない答えかたをしたかもしれませんが、遺言という言葉になんとなく一言させて頂きました。
どうか今抱えていらっしゃる悩みが消え、心身安楽になり、長い長い人生を生き抜かれ、老いを得て、病を得たのちに、その生きた事の証として、仏の慈悲の心を後進に託されるような人生を送られますようにお祈り申し上げます。
誰のためか?
ご質問ありがとうございます。
過去に言ったこと、行ったことについて謝罪したい、後悔していることってたくさんありますよね。
それについて謝罪したいと思い、実行しようとすることは素晴らしいことですね。
ただ、気をつけなければいけないのは、この謝罪は誰のためなのか?ということです。
相手のためなのか?それとも自分のためなのか?
相手にとっても良いことなのか?
もし本当に相手の為を思って謝罪するのであれば、直接会って、もしくはお手紙や仲によってはラインなどでも良いのかもしれません。
いずれにしても誠意を伝えれる手段で行うといいと思います。
しかし、この謝罪が自分の気持ちのためということならば、少し考えなければいけません。
ましてや、遺書という形になると受け取った方がどうしたらいいのか?余計に悩ませることともなりかねません。
一方通行ではなくて、相手がどう思うのか、相手にとっても、自分にとってもいい方法を模索しないといけません。
果たして誰のために謝罪するのか?
これが重要だと考えます。
お互いがいい方向へと向かうことを祈っております。
質問者からのお礼
持斎様
ありがとうございます。しかし私の質問に全く答えて下さっていませんね。申し訳ないのですが、私は本気で遺書をどうするか悩んでいます。遺書を書く方がおかしいのなら、はっきりそう仰って下さい。昨年の今頃に自殺を図った時は、衝動的で余裕がありませんでした。過剰摂取→首吊としようとしましたが、首をくくるまえに意識を飛ばしてしまったばかりに失敗しました。今はその時とは違い、これだけ冷静なので、今度こそ部屋の片付けやら遺書を遺すやらしようと思うのです。よろしくお願いいたします。
眼鏡和尚様
ありがとうございます。考えてみたのですが、どう考えても自分のためですよね。相手はそんなこと望んでいないのですから。どこかで止めてもらえることを期待していたのだと思います。遺書は書かないことにいたします。これで踏ん切りがつきます。ありがとうございました。
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