送りたい人生がわからない
最近、なんとなくヘレンケラーに興味を持ち伝記を読みました。
ヘレンケラーを具体的に知る前の私もまだまだ認識が足りないせいで雑な扱いをされてるもののために生きやすい世の中にしたい、私が死ぬ前にどうにかして少しでも幸せな生を送れるような世界したい、具体的にいうのは恥ずかしいので言いませんが、そんな野望に人生を捧げたいと思っていました。
対象は違えど、彼女と私は志が同じだと思います。
調べていくうちに彼女の年表を見ました。彼女はほぼ生涯、時代も相まって人に尽くす事ばかりをしていました。
そこで感じたのです。
自分を主体としてではなく、他人の為に一度きりしか無い生涯を尽くす事の漠然とした恐ろしさを。
しかし、こうも思うのです。
自分のために使った自由な時間は、必ずしも幸福なのか?と。他人に時間を使うのは搾取されてるイメージがあるせいで、自分の時間を持つ事が幸せだと思っていましたが、実際1人になって楽しかったかというとそうでもない。1人で勉強したりゲームしたりと自分の欲を満たすとふと、死んだあとを考えて虚しくなります。まるで、死ぬまでの暇つぶしみたいに感じて。
だからわからなくなりました。
自分の理想を目指して30,40,50代、末までをそのために生きるのかと思うと、なんだか怖いのです。
かといって自分の思う理想の人生がなんなのかわからない。
この助けたいという気持ちは、ただの自己顕示欲や使命感から出てきただけで、自分は本気ではなかったのかもしれない…。
しかしそうなると、私はこれから何をして生きればいいのかわからないです。ただ自然と、この目標を目指すようになっていたのもあり、もしこの先目指す事を諦めても、きっと気がかりでかすかな憂いと、後悔を感じながら死ぬのだと思います。
死んだあとを想像すると、自分に時間を割くのも虚しく、かといった何かのために生涯を費やすのも悪くは無いけどなんかせっかく私として生まれたのだから自分の幸福を追求したいという欲がで、かといってただ働いて趣味にも仕事にもそれなりに充実した人生を送るのは違う気がする。
人生が大切すぎて、何に時間を割こうかわからないまま迷っている感じです。直感を頼りにすると堕落の一方で、自分を律するよう意識すると完璧主義になりがちなため息苦しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まず自分の幸せから考えてください。
他人のために尽くす道。仏教では菩薩道と言います。そういう行いは大変立派なことです。
でも自分自信の幸せがまず第一です。
伝教大師は「一隅を照らす」という言葉を遺されました。
最初から大きな事をしようとするのではなく、まず身近なところから始めなさいということです。
自分の回りから始めて、大きな広がりに変えて行きなさいということです。
まずは自分のために、自分のできることから始めてください。
そして段々とその幸せの輪を広げていかれてはどうでしょうか。
二者択一ではありません
こんばんは。お若くしてこのような事を感じ・考えておられるのは、何か特別な経験か、鋭い感性をお持ちなのかな、と感じました。そして「自分と志が同じ気がする」と思える先達を見つけられたこと、良かったですね。
さて、学校と社会の関係…と言ってしまうと単純に過ぎるのですが、「勉強してきたことを、身に付けて来たことを、使って、世の中の誰かが幸せになる」といいなぁ、と思っています。つまり、学校にいる間は自分のため。人間関係も所詮教材として、自ら学ぶ種。ところが社会に出たら、自分と、それから関わりのある人を(ほんの少しでも)幸せにする。もちろん本番の人生からも学ぶ事は多い。身を以て身にしみて分かることも多い。
その繋がりを想像してみたら如何でしょうか?「勉強は自分のため。=結局虚しい」「尽くすのは人のため。=せっかく自分の人生なのに!」と、切り離してしまっているという一点だけ、書き換えてみたら。あるいは繋げてみたら?
実際ね、学生の間より、社会に出てからの方が勉強しますよ、大抵。それは仕事のスキルとしてもそうだし、改めて問題意識が発生するのです、社会の中で生きていると。そのサイクルの中で年齢を重ねていく訳ですから、どうぞご安心を。